2015年12月06日

二十世紀鉄仮面(小栗虫太郎)その1 序篇 死の都 1

 小栗虫太郎の法水麟太郎シリーズの長編「二十世紀鉄仮面」の冒頭をお届けいたします。推理小説、探偵小説の枠を超えて、ジェームズ・ボンドばりのスパイアクションものの要素をふんだんに取り入れ、日本の軍需産業を牛耳る巨悪と戦う法水麟太郎をご堪能ください。


 ヴォルテール以来、「鉄仮面の男」の悲話は、小説で、映画で、涙香の翻案で──いまは、誰一人知らぬ者ない高名な物語である。
 それは、ルイ十四世の御代に、死んで青黴が生えるまでも、鉄の仮面を顔としていた囚人の物語である。しかも、奇怪なその囚人は、さまざまに取り沙汰されて、小説では、ルイ十四世の双生子の弟とされている。
 が、事実は、正体が何物であるか分らないのである。
 そうと伝えられた他にも、或はモンマウト公とか、ボーフォール侯とか云われ、またマンツアの大使、エルコロ・マッティオリが擬せられたこともあった。しかし、結局は、それらの人々にも、死亡年月が証明されて、鉄仮面の正体は永劫の闇扉に鎖されてしまったのである。
 その男は誰か、いかなる罪科で永獄の囚人となった決ままた仮面を用い、その顔を見せまいとしたのは何故か──以上の疑惑を解こうにも、今は反響一つしない空しきである
 ただ吾々は、バスティーユの監守長「デュジュンカの記録」同典獄サン・マールの甥「フォルマノアール回想」更に、懺悔聴問僧「グリフェの日記」などによって、辛くも、仮面の外貌だけを知るに過ぎない。すなわち──
 
 ──その囚人は、顔に鉄の仮面を嵌められて、最初はピグネロールの塔に幽屛された。続いて、舁床にのせられて、聖マルグリートの塔から、バスティーユにと護送された。その時、有名な、例のマルシェルと云う仮名が、バスティーユの囚人台帳に記されたのである。死は、一七〇三年十月十九日急激に起って、屍体は、聖ポールに埋葬された。
 
 幽囚の悲劇は、今とて変ることはないが、この物語は、あまりにも悲惨である。
 諸君は、リゴーの描いた、「夜のバスティーユ」を御存知であろうか。それは、梢の揺れる、白々とした月夜──。ベルタンディエルほか、八つの櫓楼を、簫のように唸らせ飇々と吹き入る風は、いつとなしに牢獄の壁を蝕んでゆくのだ。
 その、荒れさびれた斑が、一層物凄い色を湛え、不気味な微笑を浮べて、ゆらゆらと揺めく壁の上には、無辜を訴え、密告者を呪い、あるいは禁獄の月日を長々と数えたのや、また刑場に引き出される朝、爪を破り、唇の血などで記した、聴くもおぞましい、執着や呪いが印されているのだ。
 しかも、その底の暗さ、吐息に澱んで、空気と云うにも、あまりに湿った土の香りである。仮面には、細かい黴が一面に蔓っていて、所々に、白い、蕈の肢のようなものが垂れ下っている、その微かな仄めきは、ちょうど闇夜に、檐から下っている、蜘蛛糸を見るようでもあって、それからは、何とも云えぬ、荒廃と悲愁の気が迸り出て来るのだった。
 また、そうした月のある深夜に、刎橋の軋み、濠に沼気のはぜる音を聴きながら、ふと、戸外の澄んだ空気、波打つ緑の野を思うと、幼い頃の想い出が、それからそれへと繰り出されて行くであろう。そうして囚人は、壁に十字を映す、格子の影をぼんやりと瞶めて、まだまだ機会のあった、聖マルグリートの頃を憶い出すのである。
 その頃は、折々監守の眼を盗んでは、自分の名を、リンネルの布や銀の皿などに書き記して、それを格子窓から浜辺に投げたことがあった。けれども、渚までの距離があまりにも短かったので、人々が、仮面姿を認めて、馳せ付ける頃にはなかった。湧き立つ波頭に、羽毛のごとく、弄ばれて、遠く沖合に消えゆくのを見るのみであった。それを想うとき、仮面の顎には、泣いているような皺が波打ってゆくであろう。
 事実、その海の底には、いまも無限の哀傷を湛え、静かに眠る、仮面の男の顔が横たわっているのだ……。
 その物語の影響は、古い家に住む、私にはことさら酷かった。はや、巻の中途で、胸が轟きはじめ、おずおずと這い寄って来る、幽愁の気に耐らなくなるのだ。
 そうして、無限の感動に酔い、人に、仮面に、あの見知らぬ男の終焉を知ったのではあったけれど、また反面には、かほど奇怪な、陰惨な悲劇が、よもや二度とは続くまいと信じられもした。
 ところが、その後時とともに、私の考えも、だんだん変ってゆくようになった。それは、人ではなく、仮面そのものが、後代の秘密警察に、いかなる影響を及ぼしたかと云うことである。
 事実、ルイ十四世朝には、秘密警察時代の名もあるとおりで、その制度の創始は、たしかに、一つの歴史をつくった、のみならず、その苛烈さを語る、恰好な例として、いつも、鉄の仮面は定紋視されているではないか。
 しかも、その伝統を、今なお追っていて、各国の政府が、間諜、暗殺、秘密監禁などの魔手を、公々然と振っている以上、たとえば此処に、そうした奇怪な囚人が、二人三人現われ出ようと、あながちそれは、蓋然率の上で咎むべきではないとさえ信ずるようになった。あの、闇の世界に君臨して、狂暴、残忍、兇悪の限りをつくす絶大な権力──それを知る私には、ただ一度の機会と、そして、光が欲しく思われて来た。ところが、予期にたがわず、此処に、二人の鉄仮面が現われることになった。
 ルイ朝に次ぐ、二人の鉄仮面──。
 それを聴いたとき、読者諸君は、駭き惑いのあまり、平凡な、日常生活から急に飛躍して、荒唐無稽な、神秘不可思議な世界に、移されたのではないかと疑うであろう。なるほど、真昼の幽霊に接した経験のないわれわれは、むしろ浅薄な、滑稽な感じの方が強く、まるで千一夜物語の磁石の山の話でも聴く心持がするのだ。
 船の釘が、一斉に吸い付けられて、あっと云う間もなく、シンバッドの船が砕け散ってしまうその話は、ちょうど第二第三と銘打たれる、鉄仮面のそれに髣髴としている。
 けれども、秘密警察と云う、変則の額縁から眺めてみると、それは絶対に、奇怪な戯画ではないのだ。
 しかも、仏蘭西の人事録法、旧帝政露西亜の秘密警察組織、プロシャのシュティベル法、墺太利では、メッテルニヒに編み出された衛戍区組織など、悪業の限りをつくす、闇の手を知れば知るほどに──そくそくと迫る、現実の恐怖を斥けかねるにちがいない。
 事実、この物語は、神と憐憫と慈悲の敵──秘密警察との闘争で賞かれている。
 けれども、そこに類を絶した冒険があり、謎に謎を重ねる。殺人事件で装われているとは云え、もともとそれ以上の魅力は、あの予測もできぬ暗合の神秘にあるのだ。
 実に、端を肥前五島の殉教史に発して、改宗尼僧の秘蹟から、その後現代にまでも蜒々と絶たれぬ暗合の糸──いまや、二人の鉄仮面をつなぎ、更に、南九州の一角を、陰謀の渦に捲き込もうとしている。それが、この一篇の主流、大伝奇の琴線であって、物語中、もっとも驚くべき奇異な点なのである。
 けれども、飽くまで貪婪な作者は、その二人の鉄仮面に就いて、順序通り語ろうとはしない。まず第三のそれを明らかにし、逆に第二の史中人物は、第一篇の末尾に置いて、そこに凄まじい劇的頂点を盛り上げようとするのだ。
 さて、その第三の鉄仮面とは何物か、また、秘密警察などと云う、奇怪至極な存在が、この日本の何処にあるのであろうか。
 諸君よ、私が次に語る、闇の手を導調として、おどろとひしめき狂う、底流の轟きに耳を傾け給え。


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posted by じん at 23:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 小栗虫太郎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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