2015年12月07日

二十世紀鉄仮面(小栗虫太郎)その2 序篇 死の都 2

−− 承前 −−

 一九三×年四月二十一日の払暁頃──。
 白みかかったが、まだなお深々と蒼い空、地上は暗く、葉末には、微かに黎明の戦慄が顫えていた。空には、星と交わるような、雲雀がただ一羽、しかも、小さなその一点に、ちょうど止まり木とも見える一群の煙突があった。
 地平線に近い、東の空の閃く暁の明星の下に、黒いがっしりとしたものが蹲まっているのだ。
 曙は、まさにそこから始まろうとしている……。


 真暗な、伽藍のような、極東紡績川崎工場の屋根が、ほんのりと薔薇色に染んで来た。と、その頃、隅の通用門がギイッと押し開かれて、何とも分らぬ奇妙な恰好をしたものが現われ出て来た。
 星の光、小鳥の歌、風の溜息、花の香り──たがいに贈り合う春の息吹に明けゆこうとするとき、地獄に向う最初の轍が印されて行ったのである。
 それは、今どき稀らしい、一台の荷積馬車であった。
 馬の嘶き、車輪の響き、鞭の音が薄闇の中でしていたが、やがて国道近くで、姿がはっきりとなった。その奇異な馬車は、朝霧を乱して、力のない速歩を踏んでゆく。と、内部に、サーベルらしい閃きが見えた。
 しかも、中央に据えた、人容のものを取り囲んでいて、みな夢の洞からでも出て来たような顔をしている。黙って、車の動揺に身を任せて、朝の冷気に真蒼な顔をしているのだ。
 その死体が、極東紡績川崎工場で、はじめて悪疫に斃れた最初の男なのであった。
 その男は、前日の午頃、軽い悪寒を感じたが間もなく嗜眠状態となり、全身が鉛色に変って来た。そして、僅々十時間足らずのうちに、激烈な肺出血を起して斃れてしまった。と、間もなく、夜中工場の周囲には、巌丈な鹿柴が施されて、始業を知らせる、汽笛の音も聴かれなくなってしまった。
 と云うのは、検鏡の結果、その男の死因が、劇症黒死病と決定されたからである。そうして、川崎全市は曙とともに、怖ろしい黒疫の翼に覆われてしまったのであった。
 しかし、その翌々日、今度は、同じ会社の吾嬬工場に現われたので、ようやく、それまでは不明だった、伝染経路がはっきりとした。それは、最近入荷した孟買綿花によるものなのであった。
 かくて、帝都は、暗澹たる死の恐怖に包まれた。予期されるものは、ただ突然の、そして急激な死の出現のみであった。
 その日のうちに、吾嬬町の一部は、厳重な交通遮断をされて、市民はその一角を、獰猛な暗のように見て、怖ろしがっていた。所が、次の朝は、小石川小日向台町に飛んでいて、夕方までに、四谷の伊賀町まで、点々と数十カ所の発生を見た。猖獗地に近い、劇場や盛り場はみな大扉を下して、人々は、家の中に閉じ籠って顫えていた。
 耳を澄すと、遠く近く、聴き分け難い、ものの響が伝わって来る。騎兵だ、戒厳令だ、内乱だ──と、苦しい、悲惨な亢奮のなかで、脳がしきりと夢想をはじめるのだ。死の恐怖の、底を乱して、立ちのぼる濁りのように、さまざまな流言が、風のごとく行き過ぎてゆく。
 そうして、その夜のうちに、倉庫もろとも、綿花の山が焼却されることになった。一刻一刻と、暗が濃くなるに従って、その焰が、帝都をますます物凄い色に染めて往った。
 と、その頃、外濠に沿うて、一台の警察自動車が走っていた。
 内部には、法水麟太郎をはじめ、支倉検事、熊城捜査局長の三人が揃っている。しかし、法水の眼は、眼下の深淵を、静かに落着いて覗き込んでいるように、冴々としていた。
 その云うのを聴くと、まるで黒疫背後に、ある何者かの手が働いているような口吻だった。
「ねえ御両人、君たち二人は、細菌が細菌であるが故に、伝播したと云うが、僕の説は、聊かちがうんだ。で、その手っ取り早い話が、今日の発生個所さね。僕は、それに、目的意志があると、見て取ったよ。決して、今日のは、自然のままの伝染じゃない。そこで、ためしに、小日向台町から順ぐりに線で連ねてみた。すると、やや歪んだが、Sの字になった。そして、二カ所残った切れ目が、士官学校に兵器廠跡となる。どうだね、もし、この二カ所に発生したとしたら……そうなったら、Sが8になってしまうぜ。むろん、その一角は黒疫の壁で包囲されてしまうんだ」
「話は、いかにもよく分るがね。しかし、君の云うS字形も、元来偶然に出来たものじゃないかと思うよ。一体、細菌を使って、誰が何をしようと云うんだ」
 街路には、濡れた鋪石の上に、遠い炎の反映が赤々とうつっていた。歩道には、動いている人影一つなく、そこは、廃境のような静けきであった。
 所々、間をおいて、防寨が朧な明るみの中から浮き出ている。
 そして、その奥は、靄深い、重々しい茫漠たる闇であった。法水は、喪心したような眼を返して、
「では、此方から聴くがね。そうして包囲されてしまうと、内部の居住者は、防寒から外へは一歩も出られなくなってしまう。出たら最後、その場去らずに、射殺の憂目を見なければならん。所が、何と云う事だ。明日は、臨時議会の開会日じゃないか。開期僅か四日の間に、特殊工業利得税という難物が審議される」
「うん、高峯陸相が、軍需工業者に下そうとする、あの鉄槌か……」
「そうだ。そこで熊城君、君に一つ、この点を考えて貰いたいんだ。この黒疫の壁が、もし出来上った時にだね。その時、朝野の議席に、いかなる変動が起るかと云うことだ」
 その時、車が士官学校の前を通り過ぎたが、二人の眼は、何者かに止まって険しくなった。
 そこには、いつ発生したのか、隙間なく重畳と張り繞らされている防寨──あの、徐々に拡がってゆく、悲しい帯が眼に止まったのである。そうして、Sの一端が、ついに完全な円となった。
 法水は、ブルッと身慄いして、
「これで、僕にもようやく自信がついて来たよ。自分の考えたことが、決して紀憂でないとは判ったが、思えば、痛ましい勝利じゃないか。そこで、さっきの続きだがねえ。結局、黒疫の壁が、特殊工業利得税法案を否決してしまうことになるんだ。だって、考えてみ給え。あの区域には、与党憲政党の代議士が十七名と、反対派の国友会代議士が、六人住まっている。すると、八人の小差に過ぎない、朝野の優劣が、そこで俄然覆されてしまうだろう」
「そ、それじゃ君、一種の暴力政変じゃないか。君の話は、聊か博物館過ぎるように思われるが……」
 と検事が、眼にチカッと非難の色を変べると、
「そうさ。砲列を敷いたり、分隊が太鼓を鳴らしたり、三角の帽子をかぶった連中が、議会へ押し寄せて来ないまでの話さ。形こそ違え、暗中に策謀している一味がある。所で、あの利得税法案だがねえ。あれは実に、歴代内閣の癌と云われたものだよ。目下の赤字財政を、打開する道は、軍需工業者に課する、あの一途しかない。所が、いつも上程の、風説だけはあるのだがね。きまって、議会期になると、噂の湯気が一筋も立たなくなってしまうんだ。僕は、背後にある、巨きな暗の手を感じていた。しかし、こんな、一個人の義憤なんざあ、物の数じゃないよ。そこで熊城君、その法律案の通過で、誰が一ばん痛手をうけるか、考えて見給え」
「そりゃ、むろん、茂木根合名さ」
 ときっぱり云い切った熊城の顔に、見る見る竦んだような影が差した。
「すると君は、黒疫を踊らせているのが、茂木根合名だと云うのかね」
 茂木根合名会社は、軍需工業の全線に渉って、むしろ独占会社とでも、云いたい威力をほしいままにしている。
 その麾下には、日本内燃機、極東製鋼、九州軽金属、茂木根航空機製作所などがあって、年二億円以上を、その案の通過によって吐き出すのではないかと云われている。
 法水は、頬に紅潮を上せて云った。
「そうとも、茂木根以外に、こうまで怖ろしい力が、他にあるもんじゃない。茂木根の最高幹部には君たちのような、感傷家は一人もいない筈だよ。今どき、暗殺や買収を行ってそれで尻尾を摑まれるような、愚劣な策を採るもんか。彼等は、飽くまで冷血だ。自分たちの貸借対照表を守り、あの案の通過を阻止するためには、慈悲も憐憫も、へったくれもあったもんじゃないんだ。この混乱の中で、あの財閥の頭脳はまさに最高の能力を示しているんだ。君、君、ラスコルニコフが、一体何と云ったと思うね。君はナポレオンを、一口に犯罪者と呼べるかね。こうして、毎日、千以上の棺桶が作られていくのを──それが君たちに、殺人という字画を泛ばせるだろうか」
 法水は、喘ぐような息をしながら、暫く黙っていたが続けた。
「もちろん、一つや二つの紡績工場などは、てんで問題じゃないよ。茂木根合名は、あれで小三千万の、痛手をうけたように思うだろうが、どっこいそうじゃない。一九八円ドタから、釣瓶落しになった新東を売って、その倍も、一日に儲けているんだ」
 その時、一隊の騎兵が、馬を並足に進ませて通って行った。
 黙々と過ぎてゆく、サーベルの光に、事態の急迫を思わせるものがあった。遠くかっと、赭っ茶けた炎が、一種云いしれぬ凄味を、旗の色に添えている。


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posted by じん at 22:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 小栗虫太郎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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