2015年12月09日

二十世紀鉄仮面(小栗虫太郎)その3 序篇 死の都 3

−− 承前 −−

 検事は、吐息交りに、そっと呟いた。
「ああ、いよいよ茂木根か……」
 その声音には、どこか、臆病な犬の、それに似たものがあった。
 いどみ掛ろうとしたのが、急に、相手の強大に怯えて尻尾を捲く、あれであった。到底及びあきらめにじもつかない──そう云った、弱々しい断念の色が、検事の顔にも滲み出ている。
 では、何故かそれは──此処で作者は筆を換えて、茂木根合名に関する、概述だけを残して置きたいと思う。
 茂木根合名の先祖は、茂木根の衆とも呼ばれて、薩州の西北隅上宮岳に蟠踞する、野武士の頭領であった。その版図は、西方浦の海岸にまで伸びていて、それからは、上甑の島が鵜の鳥のように見られた。
 しかし、今津公と、領土を接しているにも拘わらず、なぜ永い間、蚕食の憂目を見なかったかと云うに、それは、その一党に採鉱の天稟があるからであった。
 毎年今津公に、巨額の賦金を支払う傍ら、秘かに、西班牙船と密貿易を行っていたので、茂木根の郷は、やがては黄金のために、埋もれてしまうのではないかと噂されていた。
 その茂木根の家は、古くは武田の落武者とも云われ、後に勘兵衛流の、軍書なども発見されたほどであったが、寛永の頃、切支丹の教に入って、代々の子女には、洗礼名を付けるのが慣わしになっていた。
 現に、ただ一人残る得江子老夫人にも、マルタと云う、その名が冠せられているのである。 
 そうして、茂木根の族党は天険によって、隠密の覗うことすら、許さなかったのであったが、そこが神秘郷と目され、今津の土民でさえ山怪の衆と呼んでいたに就いては、ここに二つの理由があるのであった。
 それは、茂木根一家が、所謂多毛族であったからだ。
 胸から腿にかけて、女でさえも、硬い、短毛が密生していた。その肌触り、天鵞絨の艶々しさに、病んだような、感覚を起す近代人ならばともかく、その噂は、ますます今津家の領民に、怖ろしく思わせた。
 また、もう一つ、茂木根の衆は、早くから和蘭風の調練を学んでいたのである。
 群青色の陣馬掛けに、粮嚢を背負った軽卒共が、大隊とやら云う、並列を組んで調練をする。軍鼓の音につれ、戦隊順次、粧隊順次などと呼ばわる中隊長を見ては、ますますこの族党に、奇異感を加えたにちがいなかった。
 そこで、茂木根一党の興亡の跡を辿ってみると、そこには、一度の内争があったに過ぎない。
 ちょうど、享和の四年に、兄の当主球磨太郎が、弟織之助の住む、鎗打砦を攻め落したのみで、その後は波瀾もなく、巨富を抱いて、維新の峠も無事に越えた。
 所が、欧州大戦中に、端なくも茂木根家興隆の機運が訪れたのであった。
 それは、先主の鎌七郎が、将来全産業を、縦断するものと見込んで、炯眼にも航空機工業に手を染めたからである。
 それまでも、小規模な飛行船工場を持っていて、ヴィーユ・ド・パリー号などの、初期軟式を輸入したのも、その人であった。
 しかし、昭和になって、日本の戦備時代に入ると、茂木根の章魚肢は、たちまちにして軍需カルテルを作り上げた。そして今ではヴィカーズ、シュナイダーなどと、併称されるまでの偉観を呈するようになってしまった。
 九州は、茂木根の富で、南が沈み北が浮き上ると云われているのであるが、その茂木根の本家は、先主が死んで、一人老母の得江子が残るのみであった。
 そして、合名の仕事は、四人の旧臣が合議して行っていた。それを、寄輪四人委員会と呼んで、その決議には日本財界を指呼するほどの威力があった。
 しかし、後継者のない悩みが、結局、茂木根一家に暗影を投じていて、早くも、四人の委員に野望争いまで噂されるようになった。
 さて、最後に、四人委員会に直属している、秘密機関のことを語らねばならない。元来この国は、朋党意識の強いところであって、もともと、一県一党などと云う、政党時代もあった。
 所が、茂木根合名の手で、直轄工場が、悉く膝下に集められることになると、俄然県全体が、その工場地帯と云う感を呈してしまった。人口の五割七分までが、茂木根の事業に関係があって、今では、国中国と云っても過言でない。
 昔の城下町であった、寄輪を一都市とすれば、薩州全体は、裾を遥かに引いた郊外とも云えるであろう。
 そして、そこには、秘密機関が置かれてあって、茂木根の事業の、円滑を計るため暗躍が続けられている。
 しかしそれが、いかなる人物によって、統率されているのか──その秘密は、いまだに杳として窺い知るを許されない。そして、蠍のような、この一団の向うところには、曽って一人の敵もなかったのである。
 内闇も議会も、茂木根の手に逢っては、蠟のように曲ってしまう。すなわち、この秘密機関は、茂木根の暗黒面を代表する破壊隊なのであった。
 それを、法水が、暗に灰めかしたとき、検事の紅潮が、見る見る白けて往ったのも無理ではない。
「到底、駄目だよ。僕等なんぞの手が、どうして、彼処まで届くもんか。例えば、そうにしても、あれは、不死身の章魚だからね」
「なに、これまでに分っている、民衆の敵でもか」
 法水の顔が、いきなり険しくなって、
「あれは、ロベスピエールの云う『不義且富める者』だよ。まさか君は、裏梯子からこっそりと導かれて、あの毒虫の、粘液を舐めさせられたんじゃあるまいな」
「何を云う」
 しかし間もなく、怒りの色が、弱々しい苦笑に変って往った。
「いや、実を云うとね、別の意味で、僕は舐めさせられたかも知れんよ。今朝辞令が下りて、僕は、広島控訴院の次席に転任だ。しかし、驚くじゃないか、熊城君も、捜査局から官房主事に栄転なんだ」
「栄転……」
 その言葉を、しばらく唇の間に挟んで、法水は一言も発しなかった。闇を縫い縫い伸びる大章魚の肢──その吸盤が、この二人の上にかぶさろうとは、思いもよらぬ事であった。
 彼は、舌を硬ばらしながら、心の中でこう咳いていた。
「いよいよ、二人を失って、この法水も、街頭に立たねばならぬか。もともと私立探偵は、公けの機関で認められているものではない。この二人がいたからこそ、これまで司法権と、腐れ縁を続けて来たのだ。あの大章魚の吸盤が、とうとう法水を、孤独にしてしまったぞ。しかし、官権を離れて、あの大章魚と闘えぬほど、お前は骨抜きの意気地なしか。行け、裸の腕を振って、街頭に立て!」
 彼の眼が、じっくりと充血して、膝頭が、異様に顫えて来た。そこへ熊城が、ポケットから一通の封筒を抜き出して、
「実は、後から思い当ったことだけどね。諜報部から、瀬高十八郎宛の、この外信が廻って来ると、その翌日は、もう辞令にお目にかかってしまったんだ。君が、瀬高十八郎の名を知らぬ道理はあるまい。もともとは養子だが、瀬高家に来て、あの四人委員会を、一手に切り廻している利れ者だ。茂木根の瀬高か、瀬高の茂木根かと云われるほどじゃないか。とにかく、開いて読んで見給え。内容は、てっきり君の趣味なんだからね」
 手に取ってみると、最初眼に触れたのが、独逸ハムブルグの消印だった。所が、内容は、白紙の上に、次の数字が並んでいるに過ぎない。

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「こりゃ、何でもない。伯林取引所の株式建値じゃないか。君は茂木根が、国際的投機師なのを知らないのか」
 法水は不興気に云い返したが、何と思ったか、それをこっそり、布袋に滑り込ませてしまった。
 その時既に車は猖獗地を離れていた。そして、見付を過ぎ、平河町の暗い屋敷町を走っていた。
 彼は、一つ大きな伸びをして、運転手に、永田町の好楽会堂につけるように云った。
「それでは、此処で別れることにしよう。お名残り惜しいが、公式に君たちと手をつなぐのも、今夜限りだよ。何だか、消毒薬の匂いに、斯う向って来てね。それを追っ払ってくれる楽の音が欲しくなって来たよ。予約を取ってもあるし、まだヴォルフには、きっと間に合うと思うんだ」
 しかし、降り立って、ひとり舗道に立っと、法水は、何とも云いようのない淋しさを覚えて来た。なに、茂木根の秘密機関と闘うって、冗談じゃない、お前は、入道雲を射ようとしている、子供みたいなものじゃないか−−。
 と、次第に熱も冷めて、先刻検事の顔に見たと同じ、弱々しい微笑が浮び上って来た。


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posted by じん at 20:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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