2015年12月12日

二十世紀鉄仮面(小栗虫太郎)その4 第一篇 豪華船を追うて 1

   一、影だけの女
 
 その夜は、楽堂の灯をじっとりと包んで、細かい茶色の雨が降っていた。楽堂には、芥川稲子と大津賀十郎の二人が組んで、あの空前の一対と云われる、二重唱会が催されることになっていた。
 ところが、入口で、濡れた外套を脱いでいると、かねて見知り越しの支配人が、ポンと法水の肩を叩いた。
「いや、法水さん、今夜は何とも、あやかりたいもんですな、実は、昨日妙な御婦人がやって来ましてね、それが貴方、予約席の名前を調べたまではいいんですが、わざわざ撰りに撰ってまで、場所の悪い、貴方の隣りにして呉れと云うんでしたよ。それに、貴方を跨いで、席を二つ取ったと云う始末です。いやいや、その御婦人の名前は、一向に存知ませんのですが……」
 と、妙に唆り勝ちな言葉を云われたのだったけれど、さして気にも止めず、やがて番組の第一、フィガロの二重唱が終った。
 それが、彼にとって、陶酔以上のモツアルトだったせいか、その間、隣席に起ったことなどは一向に知らなかったのである。中途で、微かなオー・ド・コロンの匂いがしたことも、それが、終りに近くなって、スウッと遠ざかって行ったことも、だんだん夢の、またその中の夢のようにしか意識されていなかった。
 ところが、明るくなると、ふと彼は、思い出したように左右の座席を見た。
 そこには、人影はなく、たしか今、少女らしい髪の匂いがしたかと思われた左手の席に、一枚の番組が、しょんぼりと手提げの上に載っていた。
 しかし彼は、一旦は返そうとした視線を、急に思い止めて、その一枚のものを、穴の明くほど見詰めはじめた。と云って、それには、人目を引く何ものもない。ただ、装飾の薔薇の花枠に、子供らしい悪戯がされていて、それが鉛筆で、黒々と塗り潰されているだけである。
 ところが、よく注意してみると、上辺に一つ、塗られていない蕾があった。
 法水は、その仄白い、乳首のようなものに、先刻支配人から聴いた、不思議な婦人を結び付けた。そして、底秘かに通い合う、何ものかがあって、今にも、膨らもうとする、花弁の囁きが聴えて来そうに思われた。
 彼は、両腕を組んで、黙々と考えはじめたのである。
 その時、場内の電灯が一斉に消えて、フットライトが緞帳の裾を蹴あげた。すると、眩しさに瞬いた、真青な残像の中から、もくもくと呼吸付いてくるものが、現われて来た。
 彼は、その薔薇の蕾から、ふと、花言葉の意味が囁かれたような気がした。
 他が塗り潰されていて、ただ一つだけ、しょんぼりと残っている、薔薇の蕾──。その、孤独の薔薇の蕾から、「お目とめ下さいますよう」と云う、言葉をかけられたように感じた。
 それでは、その婦人が、一体何を見よと云うのであろうか。そこで、薄闇を幸いに、ときめく胸を鎮めながら、番組の端を摘んでそっと引き上げた。
 すると、その指を滑って、真白なものが、座席の、暗い紅の上にパラリと落ちた。それが、何あろう、一枚の角封だったのである。
 そこで彼は、その不思議な婦人に、はじめて興味を引かれ、やがては舞台よりも、空の座席を気にするようになった。
 所が、その婦人は、番組の終り近くになっても、姿を現わさなかった。そして、いよいよ最後の、「リゴレット」の二重唱になった。
 その時、今の花言葉に使嗾されてか、彼特有の不思議な神経が働きはじめた。
 歌の波に乗って、夢の泡のように、浮んでは消える符表が瞼に浮ぶと、その抑揚高低が、いつとなく、さっき見た相場の数字に結び付いてしまった。高く低く、旋律の描く美わしい抑揚で、彼は、その数字に罫線を引きはじめたのであった。
 最初は、二〇八馬克、次は下って、二〇二馬克、それから、また上って、二〇八馬克──アッ、Vの字が出来た。それに力を得、続く三つを踊らせてゆくと、結局、VANWと云う、四字を得たのであった。
 最初の三字は、どうやら、VANとも判読出来るが、さて、終りのWには、一体何の意味があるのであろうか。
「フウム、VANWか」
 彼が、思わず口に出したとき、右手の席から揺いだような気動が起った。
 さっきの婦人がいつの間にか戻っていたが、左の席は、いまだにがらんとしている。すると、一度は消えかけた好奇心が、また燃え上って来て、矢も盾もなく、薄闇を幸いその封筒を手に座席を離れて行った。
 そして、休憩室の片隅でこっそり取り出してみたとき、その指が端を摘んだままブルッと慄えた
 実に、意外にも、それは先刻、熊城から受け取ったばかりの、あの封書だった。茂木根合名の利け者、瀬高十八郎宛に漢堡から送られて、彼がいま、たった今、歌に乗せて、数字を文字に変えた、建値表であった。
 すると、あの婦人が、彼の内ポケットから、抜き出したことだけは明らかであるが、そうすると、花言葉を、彼に囁いた意味が分らなくなってしまう。花枠を消して、蕾一つを残したのも、ことによったら、彼処にいた無心な少女の悪戯ではないか。彼の手から、この封書を奪ったに就いては、そこに何か、重大な意義があらねばならぬ。
 と、どんなに焦だっても、頭の芯へ、揉み込めば揉み込むほどに、却って、陥りゆく泥沼の深さを知るのみであった。
 そして、あの婦人が、もしやしたら茂木根秘密機関員の一人ではないかと思うと、はじめて彼に竦み上るような恐怖が訪れて来た。
 闇さながらの深さ、予測も出来ぬ不思議な力──彼は、駸々と迫って来る大章魚の魔手を感じながら、遠く、緞帳の蜒りをぼんやりと瞶めている。
 間もなく、舞台が終って、拍手と共に、客席がざわめき出した。彼は、出口の雑沓に揉まれながら血眼になって、婦人の影を、あちこち捜し求めていた。
 ようやく見出した時には、少女を一台の車に乗せ、自分は、他の車の踏台に足をかけているところであった。
 街灯の灯の薄らと散るあたりで、顔はしかとは分らなかったけど、好みの渋い、上品な和装だけが眼に止った。しかし、その婦人は、彼を強力な磁石のように、惹き付けてしまったのである。
 それがもし、何者か分ったときには、不思議な一夜の意味も……また、茂木根秘密機関に対する、闘争の端緒が聞けぬでもないと思われた。
 そうして、深夜の屋敷町を、その二台の車が静かに滑って行った。
 背後と前面で向き合っている、二人の男女は、一方は影のようであり、片方は石で出来ているかのようであった。街灯の前を通る度毎に、婦人の横顔が、蒼白く明滅する。やがて、大倉紀念館の、暗い横町に入ると、その婦人は車を止めて地上に下りた。
 その姿は、間もなく側わらの、闇に呑まれたけれども、闇中に影となり、忍びやかに従う男は、むろん云わずと法水であった。彼は、恐ろしい夢の中にいるような気持で尾行をはじめた。
 それから、右に折れ左に曲り、端技のようなZ形の道を辿って行くうちに、彼に漸く恐怖の念が萠しはじめた。
 それは、事によったら、一つの謎の中を歩んでいるのではないかと云うことだった。今まで、婦人の足の描いた線は、決して、尋常なものではない。事実、迷路のそれのようであって、惹き入れられゆく彼に、或は、意外な運命が訪れるのではないか。
 いま斯うして、踏み出した一歩は、やがては最後の一歩になるのではないか。ああもしやしたら、自分は茂木根秘密機関の、内臓の中を歩んでいるのではないだろうか。
 すると、その婦人の影が、いきなり動かなくなって、街灯の蔭に暫く立ち止っていた。が、やがて一枚の白いものを、ひらひらと地上に落して、今度は、急ぎ足に十四五間ほど行って、再び止った。
 彼が、その紙らしいのを拾い上げて、街灯の光に透かしてみると、それには、次の走り書きの文字が認められてあった。
 ──どうぞ今夜だけは、この儘お許し下さいましな。十月四日になれば、何もかも一切が分ることですから。貴方様に、もしや御憐憫が御座いますのなら、私があの角を曲りますまで、その儘そこにじっと動かずにいて下さいませ。
 
 そして彼は、紙を斜めに、一本すうっと走っている、濡れ跡のあるのを認めた。嗅いでみると、饐えた、髪毛のような匂いがして、それが、女の涙であると分った。
 彼は、そうして、謎の結び目深くに、捉えられてしまったのである。
 彼女は、あの封書を、このが衣袋から奪い去ったにも拘わらず、泣いて、今夜の許しを自分に乞うている。それにしても、十月四日と云うこの日付には、一体どんな意味があるのであろうか。
 法水は、ただただ夢に夢見るような心持ちがして、自分の影を茫んやりと見詰めていた。
 と、女の髪が、塀に沿うて、そっと滑り動いたかと思うと、忽ち、疑問符のように口を開いている闇の中に呑まれてしまった。かくて、陰惨な、死の都の一角に起った、不思議な冒険が終ったのである。
 所が、彼の帰宅を、ちょうど待ち設けていたように、そこには、二度目の駭きが伏せられてあった。
 と云うのは、着換えをしようとして、何の気もなく内衣袋に手をやると、ふと、異様な手触りに、ハッと息を窒めたのである。
 一枚しか、ある道理のない封書が、二枚。しかも、硬い二つの角が、正確に触れてくるのだ。不審に思って、取り出したとき、彼は、眼が眩まんばかりの駭きに打たれた。


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posted by じん at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 小栗虫太郎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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