2015年12月13日

二十世紀鉄仮面(小栗虫太郎)その5 第一篇 豪華船を追うて 2

−− 承前 −−

 それは、奇怪にも、人間の智恵では、到底推し測れぬ不可思議なことであった。宛名から内容までそっくり同じなものが、二枚揃って彼の眼前に現われた。
 しかも、瞳を定めて、なお詳しく調べてみると、意外なことに、その二つの日付がちがっている。一つはまさしく、熊城から受け取ったそれに違いないが、もう一つの方は、同じ漢堡でも、一九一八年十二月四日の日付であった。
「ああ、あの時奪い返した筈なのが、却って、婦人の手にあった、これを盗んでしまったのか。どうしてあの時、一応は自分の内衣袋を確かめて見なかったのであろう。返そうにも、もう、機会は過ぎた……」
 法水は、自責の念に駆られ、頭が茫うと霞んでいて、ただただ深まりゆく疑問に啞然となっていた。
 十八年前に、同じ瀬高十八郎に宛て、しかも、同文のこの封筒──。それを、手にしている、あの婦人は何者であろうか。
 いつ、解け合うとも知らぬ、謎の数々に、やがて彼は、じりじり溶け込んでゆくかのように酔わされて行った。
 翌朝、眼を醒ましても、昨夜の幻は、しぶとく頭の底にこびりついていた。時々、女の輪郭が、ありありと現われるが、その顔は一度も笑わなかった。
 唇は震え、名状し難い苦悩が、誰とも分らぬ、顔の中に見えた。返して、返して、貴方は盗んだのです──彼はその声を、聴くまいとして、はっきり聴くからと云って、自分の耳を痛いほど噛んでやりたい気がした。
 しかし、あの封書を、もう一度吟味してみたら、或は何か分って来るのではないかとも思われた。そして、洋琴の前に行き、前夜挟んで置いた、譜本の間を探したが、奇怪にも二枚の建値表は、一夜のうちに消え失せてしまったのであった。
 ああ、昨夜ふとした錯誤で、舞い込んで来たものが、今朝はもう、一陣の風がその姿を吹き去ってしまっている。
「ない。盗まれた?」
 彼は、くらくらと眩暈がして、思わずついた手の下で鳴る、鍵盤の音も聴こえなかった。その様子を、掃除に入って来た婆やが、不審がって訊ねると、
「実はねえ、婆や。誰か昨夜、この室に入って来たらしいのだ。起きたとき、戸締りに何処か外れていたところはなかったかね」
「それが、実は御座いますのですがねえ。湯殿の脇の戸が、開いて居りまして、門まで女の方の、下駄の跡が続いて居りますのです。昨夜、雨の降り止んだのが、三時過ぎで御座いますから、きっとその後だろうと思います。でも、何ぞ、紛失なりものでも……」
「いや、大したものじゃないんだ。いいから、掃除は後にして、僕を独りにして置いてくれ」
 そう云って彼は、暫く黙然と朝の庭を眺めていた。しかし、そうした盲捜りの彷徨のなかに、彼はふと一つの閃きを感じた。
 それは、あの二枚の建値表──と云うよりも、彼が解読した未完成の文字に恐らくは予想も出来ぬ秘密が潜んでいるのではないか。また、昨夜の女は、やはり茂木根秘密機関員の一人であって、盗んだのは、即ち奪還を意味するのではないだろうか──と云うことであった。
 しかし、ともかく昨夜のことをと反覆してみると、寝ぎわに、一二度洋琴を弾いた事が憶い出された。
 古典好みの彼は、異様な癖で、電灯を消し、蠟燭を立てて弾奏するのが常であるが、最初の曲は、たしかリッデルの「風にて」であって、次にフッスの「瀑布」を弾いたような気がした。
 美しいせせらぐような「風にて」とはちがって、「瀑布」は三連音符で、低音の強音が、急潭のように続いて行く。そして、弾き終ってから、その譜本の上に、あの封書を置いて、更にその上を、たしかシューベルトの、「聖母像」で覆うたような気がした。
 すると、何に思い当ったか、彼の眼が、燭台に向って飛んだ。
「アッ、これで、分った?」
 そして、飛び付くようにして、右手の燭台に刺さっている、蠟燭を摑み上げた。それには蠟涙が蛇のように、くるくる蠟身を捲きながら、垂れ下がっているのだ。
 つまり「瀑布」で叩いた強いタッチが、この蠟燭の、底を浮かせたにちがいないのだ。
 然し、譜台の上には、優しい「聖母像」が聞かれている。そうすれば、聊かかでも洋琴を知り、自分と同じ、古典的弾奏の経験があるものなれば、即座に、「聖母像」が弾かれたのでないことは、悟るに違いない。
 分った、これが音楽家でなければ、誰が蠟燭に現われた、微妙な変化に気付くであろう。次第に暗い世界が、刻々と狭まってゆくように思われた。底のない淵の藻草が、まさにはっきりと見えたような気がした。
 やがて、彼の頭の中に、いつかクラヴィアを弾いた、蓮蔵種子の姿が浮んで来たのである。とうに、楽壇を退いてはいるが、たしか種子には、自分と同じ奇癖があった筈である。
 その夜、尋ね当てた種子の家の門前に、法水は窺うように突っ立っていた。
 私は、それを思うにつけ、つくづく宿命の手の、偉大さを考えぬ訳にはいかない。この世の中の、あらゆるものは、一見なんの連鎖もないようでいて、その実、すべてに結び合った、事実の連鎖から成り立っているのだ。その厖大な機械の中では、一切のものが、歯車であり、滑車であり、曲柄なのである。
 更に、ルーレットを見るがいい。円盤を、黒と赤の扇形に染め分けて、針のついた軸木が、その上で廻転する。けれども吾々は、賭金をはり胸を轟かせるとは云え、ただただ偶然を願い、勿論その針が、どう動くかを予見することは出来ないのだ。しかし、万事は最初の一押しにあってその際の微妙な筋覚が、一切を支配してしまうのだ。そう云った、筋覚の力、宿命的な偶然が、実に法水の行なうその夜の冒険にあったのである。
 夜は、真黒ではなく、満月で、風に逐われた雲の塊りが、その面を流れてゆく。そのために、或は明るく或は暗く、灯のない古い家には物音一つなかった。
 彼が猫のような手付きで、軽く門扉を押すと、突然掛金の軋る音が暗の中でした。動悸が、双の顳顬から、鎚音のように聴え、手も足も、義手か義足のように感ぜられた。
 彼は、崩れた白壁を、注意深く避けながら、雑草を踏み踏み裏口に廻った。その扉は、やはり音もなく、押されるがままに動いたが、そこからは、暗の洞からでも出て来るような、湿っぽい空気が流れ出て来た。
 しかし、驚かされたのは、どこからとなく、朽木の匂いがぷうんと鼻をついて来ることだった。天井も長押も、木理など分らぬほどに煤けていて、框など、踏むそばから、ボロボロに欠け落ちてくる。板縁には、銀色に長く蛞蝓の跡が続いていて、尾を曲げた鋏虫が脅かすように見詰めている。
 蓮蔵種子が、もしやして、あの夜の女でないにしろ、この家に住む彼女の生活は文字の通りの鬼気であった。
 そこで、一瞬躊躇して、なおも注意深く耳を凝らしていたが、いよいよ留守を知ると奥深くに進んで行った。やがて、家具に乏しい書斎らしい室に出て、そこに洋琴と、一枚の写真が眼に止った。
「ハハア、これが種子の娘時代だな。一時はウイン帰りで散々鳴らしたものだが、今の生活は不思議以上だ。暗い影を持ち、暗に這いずり廻る、雌蜘蛛でもなけりゃ、この朽ちた家に、ただの一人で住めるものじゃない。きっと、楽壇から捨てられて、自暴自棄の末に、茂木根秘密機関の一人になったのかも知れない。女冒険家め、この泉のような面影、今は何処にありだ。さぞ不健康な脂肪でブクブク肥って、頸に、紅いリボンなどを巻いて、宝石も飾るが洗滌器も使うと云う奴だろう」
 彼は、ひとりで云い、ひとり頷きながら、洋琴の側に進んで行った。そして、彼女が果して昨夜の女であるかどうか──それを確かめるために、まず譜台の一冊を除けてみた。
 すると昨夜自分がしたとちょうど同じように、そこからは大きな羅紗紙の封筒が、ボロリと落ちたのである。
「やはり、そうだったか、だが、やれやれ、これで漸く、疑問の一つを解くことが出来たぞ」
 と、ほくそ笑みながら、その封筒を聞いたとき、思わず、立てようとした叫びを危く噛み殺した。
 内部には、文字のない光沢紙が一枚あって、それに彼の顔がぼんやりと映っているのだ。
 敗北−−彼は地響き打って、種子の隻手に叩き付けられた。勝利の絶頂からいるもんどり打って、敗残のどん底に堕ちゆく自分を見ると、もともと自尊心が強いだけに彼は顫えるような屈辱を感じた。


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posted by じん at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 小栗虫太郎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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