2016年05月29日

『江戸川乱歩 作品集』を109作品にパワーアップしました

 先日ブックオフの書棚を見ていると、角川ホラー文庫の「火星の運河」という本を発見しました。東雅夫編の江戸川乱歩エッセイ集です。「火星の運河」がエッセイなのかどうかはよくわかりません。乱歩曰く「私の夢を散文詩みたいに書いたもの」で、少なくとも探偵小説ではありません。インパクトのある「火星の運河」をタイトルしたかったのではないかと思われます。「何故、乱歩が火星なんだ」という惹起効果を狙ったのでしょう。中身は乱歩のエッセイを収録した本でした。


 そこでこのエッセイを書き起こして『江戸川乱歩 作品集』の収録数を増やすことにしました。とりあえず、「第一部 乱歩地獄」と「第二部 懐かしき夢魔」のエッセイを16篇書き起こしました。もともと青空文庫には乱歩のエッセイはほんどありません。野村胡堂との対談がある限りです。そこで、「二〇世紀鉄仮面」にあった小栗虫太郎についてのエッセイを追加したのですが、それでも寂しい限りでした。今回16篇追加したので、少しは様になったと思っています。

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 追加した作品は

 映画の恐怖
 ある恐怖
 墓場の秘密
 お化人形
 声の恐怖
 旅順海戦館
 人形
 非現実への愛情
 妖虫
 瞬きする首
 郷愁としてのグロテスク
 レンズ嗜好症
 残虐への郷愁
 「幽霊塔」の思い出
 こわいもの(一)
 こわいもの(二)

です。乱歩が抱いていた感覚、幼児期の体験や嗜好などから作品のアイディアやディテールが導きだされているという感じをうけました。たとえば、「映画の恐怖」では

私は活動写真を見ていると恐ろしくなります。あれは阿片喫煙者の夢です。

という書き出しから始まります。乱歩にとって映画そのものが「恐怖」の存在なのです。さらに

スクリーンの上で、映画の燃え出すのを見るほど、物凄いものはありません。それは、ただ焰の恐怖のみではないのです。色彩のない、光と影の映画の表面に、ポッツリと赤いものが現れ、それが人の姿を蝕んで行く、一種異様の凄味です。

 とあります。この感覚は「暗黒星」の冒頭のシーンに繋がるものでしょう。なおこのエッセイは大正14年の「婦人公論」に掲載されたもので、「暗黒星」が発表されたのは昭和14年なので、かなり間が空いていますが、乱歩は映画にたいする恐怖を持ち続けていたのでしょう。せっかくなので、「映画の恐怖」は下記に全文をペーストしておきます(下記テキストにはルビはありません)。でもこの時代からセロハンの3D眼鏡はあったんですね。



映画の恐怖

 私は活動写真を見ていると恐ろしくなります。あれは阿片喫煙者の夢です。一吋のフィルムから、劇場一杯の巨人が生れ出して、それが、泣き、笑い、怒り、そして恋をします。スイフトの描いた巨人国の幻が、まざまざと私達の眼前に展開するのです。
 スクリーンに充満した、私のそれに比べては、千倍もある大きな顔が、私の方を見てニヤリと笑います。あれがもし、自分自身の顕であったなら 映画俳優というものは、よくも発狂しないでいられたものです。あなたは、自分の顔を凹面鏡に写して見たことがありますか。赤子のように滑らかなあなたの顔が、凹面鏡の面では、まるで望遠鏡でのぞいた月世界の表面のように、でこぼこに、物凄く変っているでしょう。鱗のような皮膚、洞穴のような毛穴、凹面鏡は怖いと思います。映画俳優というものは絶えずこの凹面鏡を覗いていなければなりません。本当に発狂しないのが不思議です。
 活動写真の技師は、暗い部屋の中で、たった一人で、映画の試写をする場合があるに相違ありません。そこには音楽もなく、説明もなく、見物もいないのです。カタカタカタという映写機の把手の軋りと、自分自身の鼻息のほかには何の音もないのです。彼はスクリーンの巨人達とさし向かいです。大写しの顔が、ため息をつけば、それが聞えるかもしれません。哄笑すれば、雷のような笑い声が響くかもしれません。私達が、見物席の一番前列に坐って、スクリーンと自分の眼との距離が、一間とは隔たぬ所から、映画を見ていますと、これに似た恐怖を感じることがあります。それは多く、しばらく弁士の説明が切れて、音楽も伴奏をやめている時です。私達は時として、巨人達の息づかいを聞き分けることができます。
 映写中に、機械の故障で、突然フィルムの回転が止まることがあります。今までスクリーンの上に生きていた巨人達が、はッと化石します。瞬間に死滅します。生きた人間が突如人形に変ってしまうのです。私は活動写真を見物していて、それに遭うと、いきなり席から立って逃げ出したいようなショックを感じます。生物が突然死物に変るというのは、かなり恐ろしいことです。
 はなはだ現実的な事を云うようですが、この恐怖には、もう一つの理由があります。それはフィルムが非常に燃えやすい物質で出来ている点です。そうして回転が止まっている間に、レンズの焦点から火を発して、フィルム全体が燃え上がり、劇場の大火を醸した例はしばしば聞くところです。私は、スクリーンの上で、巨人達が化石すると、すぐにこの劇場の大火を連想します。そして妙な戦慄を覚えるのです。
「あなたには、こんな経験はないでしょうか」
 私は、いつか、場末の汚い活動小屋で、古い映画を見ていたことがあります。そのフィルムはもう何十回となく機械にかかって、どの場面も、どの場面も、まるで大雨でも降っているように傷ついていました。多分時聞をつなぐためだったのでしょう。それを、眼が痛くなるほど、おそく回しているのです。画面の巨人達は、まるで毒ガスに酔わされでもしたように、ノロノロと動いていました。ふと、その動きが少しずつ、少しずつのろくなって行くような気がしたかと思うと、何かにぶつつかったように、いきなり回転が止まってしまいました。顔だけ大写しになった女が、今笑い出そうとするその刹那に化石してしまったのです。
 それを見ると、私の心臓は、ある予感のために、烈しく波打ち始めました。早く、早く、電気を消さなければ、ソラ、今にあいつが燃え出すぞ、と思う間に、女の顔の唇のところにポッつリと、黒い点が浮き出しました。そして、見る見る、ちょうど夕立雲のように、それが拡がって行くのです。一尺ほども燃え拡がった時分に、初めて赤い焰が映り始めました。巨大な女の唇が、血のように燃えるのです。彼女が笑う代りに、焰が唇を開いて、ソラ、彼女は今、不思議な嘲笑を始めたではありませんか。唇を嘗め尽した焰は、鼻から眼へとますます燃え拡がって行きます。元のフィルムでは、ほんの一分か二分の焼け焦げに過ぎないのでしょうけれど、それがスクリーンには、直径一丈もある、大きな焰の環になって映るのです。劇場全体が猛火に包まれたようにさえ感じられるのです。
 スクリーンの上で、映画の燃え出すのを見るほど、物凄いものはありません。それは、ただ焰の恐怖のみではないのです。色彩のない、光と影の映画の表面に、ポッツリと赤いものが現れ、それが人の姿を蝕んで行く、一種異様の凄味です。あなたは又、高速度撮影の映画に、一種の凄味を感じませんか。
 われわれとは全く時間の違う世界、現実では絶対に見ることのできぬ不思議です。あすこでは、空気が水銀のように重く見えます。人間や動物は、その重い空気をかき分けて、やっとのことで蠢いています。えたいの知れぬ凄きです。
 私はある時、こんな写真を見たこともあります。
 スクリーンの上半分には、どす黒い水がよどんでいます。下半分には、えたいの知れぬ海草が、まっ黒にもつれ合っています。ちょうど無数の蛇がお互いに身をすり合わせて、鎌首をもたげてでもいるような、海底の写真なのです。それが、いつまでもいつまでも何の変化もなく映っています。見物達が退屈しきってしまうほども。と、海草の間から、フワリと黒いものが浮き上がって来ます。やっぱり海草の一種らしく見えるものです。何であろうと思っていますと、その黒いフワフワしたものの下から、ポッカリと白いものが現れて、それが、矢のように前方に突進して来ます。はッと思って見直すと、もうそこには、画面一杯に女の顔が映っているのです。藻のようにかみの毛を振り乱した、まっぱだかの女の顔が、それから、彼女はいろいろに身をもがいて、溺死者の舞踏を始めます。
 水中の人間を、同じ水の中から見る物凄さは、海水浴などでよく経験します。そして、それは高速度撮影の映画から受ける、不思議な感じと似た味わいを持っています。
 これも場末の活動小屋で発見した、一つの恐怖です。小屋の入り口で、お客に一つずつ、紙の枠に、右には赤、左には青のセルロイドを張りつけた、簡単な眼鏡を渡します。何のゆえともわからずに、私はそれを受け取って小屋の中へはいります。見ると正面の舞台には「飛び出し写真」という文字を書いた、大きな立看板が立ててあります。なるほど、実体鏡の理窟で、映画に奥行きをつける仕掛けだなと、独り合点をして、それでも、その飛び出し写真の番を待ちかねます。
 やがていよいよそれが映り始めます。ただ見ると、赤と青とのゴッチャになった、何とも形容のできない(それゆえちょっと凄くも感じられる)、画面ですが、木戸で渡された色眼鏡を通して見ますと、それがちゃんと整った奥行きのある形になるのです。ここまでは至極あたり前のことで、何の変哲もありません。が、さて映画の進むにつれて、実に不可思議な現象が起こり始めるのです。
 写真はすべて簡単なもので、画面に人間とか動物とかが現れて、それがズーッと見物の方へ近付いて来るとか、何か手に持った品物を前方へっき出すとか、ほんのちょっとした動作を、幾場面も能したものに過ぎません。たとえば一人の男が現れて、非常に長い木の棒を見物の方へそろそろと突き出します。ある程度までは、その棒は画面の中で延びています。たとい奥行きがついても画面の中で奥行きがついているに過ぎまぜん(ここまでは普通の実体鏡と同じことです)。ところが、ある程度を越すと、棒の先端が画面を離れて、少しずつ少しずつ見物席の方へはみ出して来ます。そして、前の方の見物達の頭の上を通とぎぱなしつえり越して、空中を進みます。まるでお伽噺の魔法の杖初ように、どこまでもどこまでも延びて来ます。私はあまりの恐ろしきに、思わず眼鏡を脱します。するとそこには、やっぱりゴチャゴチャした赤と青との画面が、無意味に動いているばかりです。
 また眼鏡をかけますと、棒の先端はもう眼の前二、三寸のところまで迫っています。それでもまだ少しずつ少しずつ延びているのです。そして、二寸、一寸、五分と迫って来て、はッと思う間に、その棒の先が、グサッと私の目につきささります。
 同じようにして、恐ろしいけものが、私に向かって突進して来たり、スクリーンから吹き出すホースの水が私の眼鏡をぬらしたり、もっと恐ろしいのは、一つの髑髏が、まっくらな空中を漂って来て、私の額にぶつかったりします。むろんそれらは皆一種の錯覚に過ぎないのですけれど、色眼鏡を通して見た、妙に陰鬱な世界で、こんな不思議に接しますと、ちょうど、醒めようともがきながら、どうしても醒めることのできない、恐ろしい悪夢でも見ているようで、その映画が終った時、私の腋の下には、冷たい汗が一杯にじんでいたほども、変な恐怖を感じたものです。
 これはよくあることですが、映画のあと先が傷つくのを防ぐために、不用なネガチブ(光と影とが正反対になっている)のフィルムが継ぎ合わせてある、それがどうかした拍子に、スクリーンへ現れることがあります。たとえば一つの映画劇が、おきまりのハッピィ・エンドで終るとします。見物達は多少とも輿奮状態におります。そして、いよいよこれでおしまいだ。さて拍手を送ろうとしている彼等の前に、ふと不思議なものが映ります。それは、劇の筋とは全然関係のない、しかもネガチブの景色や人物などです。
 一番恐ろしいのは、それが人物の大写しである場合です。そこには白い着物を着た白髪頭の、大仏のような姿が蠢いています。むろん顔はまっ黒です。そして、目と唇と鼻の穴だけ、白くうつろになっているのが、その人物を、まるで人間とは違ったものに見せます。あれに出っくわすと、私は、突然映画の回転が止まった時と同様の、あるいはそれ以上の恐怖を感じます。活動写真というものは、何と不思議な生き物を創造することでしょう。
 映画の恐怖。活動写真の発明者は、計らずも、現代に一つの新しい戦慄を、作り出したと云えないでしょうか。





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posted by じん at 10:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸川乱歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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