2016年05月31日

江戸川乱歩の「暗黒星」を書き起こしています。「第一回 恐ろしき前兆」を掲載。

 江戸川乱歩といえば、やはり「明智小五郎」です。『江戸川乱歩 作品集』には明智小五郎作品は8つしかありません。少年探偵団ものを除いた明智小五郎ものは全21作あります。最終的には完全版にしたいと思っておりますので、足りない作品は自前で書き起こすことにしました。まず、手元にあった「暗黒星」を書き起こしています。


 手元にある「暗黒星」は創元推理文庫版です。創元推理文庫版は初出連載時の挿絵を挿入して編集されていて、連載時の挿絵も楽しむことが出来ます。「暗黒星」の挿絵は伊東顕となっていますが、伊東顕氏の生年没年は検索してもわからなかったので、Kindle本に掲載するのは無理そうです。まあでもスキャンしたショットの一部をご覧いただくのは、引用の範囲だと思うので、本文の最初に貼付けます。

 それでは「講談倶楽部」に昭和14年1月〜12月まで連載された「暗黒星」の最初の見出しからご覧下さい。なお、テキストは処理の関係上ルビを省いています。もし誤字や脱字、テキストのおかしい所などありましたら、コメントにでも書き込んでいただければ幸いです。Kindle本に反映したときに、誤字脱字を出来るだけ少なくしたいので、ご協力のほど、よろしくお願いいたします。



   暗黒星 第一回 恐ろしき前兆

annkokusei01.jpg

 東京旧市内の、震災の大火にあわなかった地域には、その後発展した新らしい大東京の場末などよりも、遙かに淋しい場所がいくつもある。東京のまん中に、荒れ果てた原っぱ、倒れた塀、明治時代の赤煉瓦の建築が、廃墟のように取り残されているのだ。
 麻布のK町もそういう大都会の廃墟の一つであった。震災に焼きはらわれた数十軒の家屋のあとが、一面の草原に取り囲まれるようにして、青苔の生えた煉瓦塀がつづき、その中の広い地所に、時代のために黒くくすんだ奇妙な赤煉瓦の西洋館が建っている。化けもの屋敷のように建っている。
 明治時代、物好きな西洋人が住宅として建てたものであろう。普通の西洋館ではなくて、建物の一方に、やはり赤煉瓦の円塔のようなものが聳えているし、建物全体の感じが、明治時代の、つまり十九世紀末のものではなくて、それよりも一世紀も昔の、西洋画などでよく見る、まあお城といった方がふさわしいような感じの奇妙な建物であった。
 そこは大きな屋敷ばかり並んだ町に囲まれているので、めったに通りかかる人もないような、大都会の盲点ともいうべき場所であったが、もしわれわれが道にでも迷って、その西洋館の前を通ったとすれば、突然夢の世界へはいったような感じがしたに違いない。ああ、これが東京なのかしらと、狐につままれたように思ったことであろう。それほど、その場所と建物とは、異国的で、現代ばなれがしていた。
 年代をはっきりしるすことは差し控えるが、ある年の春も半ばのどんよりと曇った夜のことであった。その奇妙な赤煉瓦の建物の、中に、五、六人のしめやかな集まりがもよおされていた。といっても、廃墟に巣くう盗賊などのたぐいではない。その西洋館に住む家族たちの集まりなのである。この古城のような建物には、人が住んでいたのだ。奇人資産家として人にも知られた伊志田鉄造氏一家のものが住んでいたのだ。近所の人はその伊志田氏の姓を取って、この怪西洋館を「伊志田屋敷」とも「伊志田さんのお城」とも呼んでいた。
「お城」には五、六人の家族と、三、四人の召使いとが住んでいるらしかったが、夜になれば、どの窓も明りが消えて、建物全体がまっ黒な大入道のように見えた。昼間でも、「お城」はひっそりと静まり返っていて、建物の広いせいもあったのだろうが、二階の窓に人の影の映ることも稀で、そとからはまるで空き家のように感じられた。時たま窓から人の顔などが覗いていると、なんだか物の怪のように無気味で、通りかかる付近の人を怖がらせるほどであった。
 そういうお城の中の、一ばん広い客間に、五、六人の人影が、声もなく腰かけていた。電燈は消えて、まっ暗な闇の中に、それらの人影はほとんど身動きもせず、じっと静まり返っていた。
「兄さま、どうなすったの? 早くしなくちゃあ……」
 闇の中から可愛らしい少女の声が、叱るような調子で響いた。
「ウン、すぐだよ。なんだか今夜は器械がいうことを聞かないんだ。よしっ、さあはじめるよ」
 若々しくやさしい男の声が答えたかと思うと、突然ジーンとモーターの回転する音がして、カタカタカタと歯車が鳴り出した。そして、部屋の一方の壁が一間四方ほどボーッと薄明かるくなって、そこに人の姿がうごめきはじめた。
 十六ミリの映写がはじまったのだ。なんでもないことなのだ。しかし、それが果たしてなんでもない映画観賞として終ったかどうか。その夜は何かしら家族の人たちを脅えさせるようなものが、その部屋の闇の中にたちこめていた。

 十六ミリのフィルムには伊志国家の家族の人たちが写っていた。広い庭の樹立を背景にして、余りはっきりしない人影が、五十歳ほどのでっぷりしたひげのある紳士ゃ、その夫人らしい人や、二十二、三の美しい令嬢や、十六、七歳の可愛らしい女学生や、腰の二つに折れたようになったひどい年寄りのお婆さんなどが、まるで幽霊のように、暗い樹立の前を妙にノロノロと右往左往していた。
「ほら、僕の大写しだよ」
 器械をあつかっていた黒い影が、又やさしい声で言ったかと思うと、スクリーンの画面がパッと明かるくなって、一間四方一杯の大きな人の顔が現われた。まるで女のように美しい二十歳あまりの青年の顕である。長いつやつやした髪をオールばックにして、派手な縞のダブル・ブレストを着ている。まっ白なワイシャつの襟、大柄な模様のネクタイ。「僕の大写しだよ」と言ったのをみると、今映写器のそばに立って技師を勤めているのが、この美貌の持ち主に違いない。
 スクリーンの美しい顔がニつコりした。睫毛の長い一重|瞼が夢見るように細くなって、片頬に愛らしいえくぼができて、花弁のような唇から、ニッと白い歯が覗いた。だが、その笑いがまだ完成しない前に、どうしたことか、カタカタと鳴っていた歯車が、何かにつかえたように、音を止めて、同時にスクリーンの巨大な美貌が、笑いかけたままの表情で、生命を失ったかの如く静止してしまった。
 美青年の技師が不慣れであったせいか、咄嗟の場合、映写器の電燈を消すのを忘れて、ぼんやりしていたものだから、レンズの焦点の烈しい熱が、たちまちフィルムを焼きはじめ、先ず美青年の右の眼にポッつリと黒い点が発生したかと思うと、みるみる、それがひろがって、眼全体を空虚な穴にしてしまった。美しい右の眼は内障眼のように視力を失ってしまった。
しようえき
 一瞬にして眼球が溶けくずれ、眼窩の漿液が流れ出すように、その焼け穴は眼の下から頬にかけて、無気味にひろがって行き、愛らしいえくぽをも蔽いつくしてしまった。美青年の半面はいまわしい病のためにくずれるように、眼も眉も口も一つに流れゆがんで行った。
「兄さま、いけないわ。早く!」
 少女の甲高い声と、ほとんど同時に、カチッとスイッチを切る音がして、たちまちスクリーンが闇に蔽われ、醜く歪んだ顔の大写しは、幻のように消え去った。やっと技師が映写器の電燈を消したのである。
「電燈をつけましょうか」
 これは、闇の中からの中年の婦人の声であった。
「なあに、大丈夫です。すぐ映りますよ」
 そして、何かしばらく映写器をいじくっていたが、間もなくカタカタという歯車の音が起こって、スクリーンに次の場面が映りはじめた。
 一分ほどは何事もなく、家族らしい人たちの動作が次々と映し出されたが、やがて、又大写しの場面がきた。今度は美青年とほとんど同年輩に見える美しいお嬢さんの顔であった。美青年の美しさを凄艶と言い得るならば、このお嬢さんの美しさは華麗であった。桃色の牡丹の花が今咲きそめたようにあでやかであった。
 だが、なんという不思議な偶然であろう。画面が大写しとなるや否や、又しても映写器の回転がピッタリと止まった。そして、人々がギョッとしたようにスクリーンを見つめているうちに、そのお嬢さんの牡丹のように美しい顔の唇の辺に、ポつリと黒点が現われたかと思うと、まるで夕立雲がひろがりでもするように、ジワジワと、しかも非常な速さで、恐ろしい焼け焦げの痕が唇全体を蔽い消していった。
 唇のなくなったお嬢さんの巨大な顔が、眼と頰だけで笑っていた。あでやかに笑っていた。だが、それがあでやかであればあるほど、溶けて流れた唇のあとが物凄く恐ろしかった。しかもその溶解は唇だけにとどまらず、ちょうど口からおびただしい液体が流れ出す感じで、みるみる下|顎全体を蔽い尽し、たちまち美しい笑顔の下半分を身震いするような化物の形相に変えてしまった。
 一間四方の巨大な顔が、しかもそれを見物している人自身の顔が、はッとする間に、なんともえたいの知れぬ怪物に変って行く恐ろしき。フィルム面上の焼け焦げは、二ミリか三ミリなのだ。それがかすかな焰を発して燃えるのだ。しかし、スクリーンの上には、千倍万倍に拡大されて写される。燃えひろがる早さも、焼け焦げ独特のジワジワした感じであるが、それが千倍万倍の速さになって、顔面の皮膚を這いひろがるのだ。溶けただれて行くように、虫に喰われて行くように、一瞬にしてわが相好の変って行く恐ろしき。そのなんとも言えぬ恐怖は、自分自身の大写しの映画面が焼けて行くのを、実際に見た人でなければ、想像できないかもしれぬ。
 それは、血みどろになって手術を受ける恐ろしさ、わが顔が醜悪なる怪物になって汚されてゆく無気味さ、いや、そういう現実的なものでなくて、思わずうめき声を立てるような悪夢の世界でのみ経験し得る戦慄であった。
 美青年の映写技師は、今度は前よりもすばやく器械のスイッチを切ったのだが、その咄嗟のあいだに、スクリーンの美しい顔は半分以上溶け流れていたのである。
「怖いわ、怖いわ、兄さま」
 可愛らしい少女の声が、闇の中から脅えたような、甘えるような調子で聞こえた。
「よそう。もうよしましょう。僕もなんだかいやな気持になった。お母さま、電気をつけてください」
 一つの黒い影が、無言で立ち上がって、壁のスイッチに近づいたかと思うと、パッと室内が明かるくなった。今までの暗さに比べて、まるで真昼のように明かるかった。
「どうして止すんだ。つづけてやればいいじゃないか」
 家族たちの一方の端に腰かけていた人物が、美青年を詰るように言った。その人物は、さいぜんスクリーンの中を歩いていた、あのでっぷり太った、口ひげのある五十恰好の紳士であった。この家の主人伊志田鉄造氏である。
「でも、お父さま、僕、なんだかいゃあな気持なんです。恐ろしいのです」
 スクリーンで見たと同じ、あの凄艶といってもよいほど美しい、ダブル・ブレストの青年が映写器のそばを離れながら、青い顔をして答えた。
「恐ろしいって」伊志田氏は又かと言わぬばかりの苦い顔をした。「一郎、お前このごろどうかしているんじゃないのかい。病気なのじゃないのかい。妙なことばかり言っている」
「ほんとうよ。一郎さん病人みたいよ。まっ青だわ」
 これも今スクリーンで見たばかりのあの美しいお嬢さんであった。この家の長女、美青年一郎の姉、綾子である。
「僕のこの気持は、なんといって説明していいかわからないのです。前兆としか考えられないのです。僕たちのこの家に、何かしら恐ろしい禍の起こる前兆としか考えられないのです。今もあの映画を写しつづければ、きっと僕とお姉さまだけでなくて、お父さまも、鞠子も、大写しの顔が出るたびに、同じ事が起こったに違いないんだ。僕はちゃんとそれを知っていたんだ。あの夢で幾度も見て知っていたんだ」
 青ざめた美青年は物狂わしく言い張った。
「夢って、お前、どんな夢を見ましたの?」
 母夫人が心配そうに顔を曇らして、おずおずと訊ねた。この人もスクリーンに現われた人物の一人であった。髪形や服装は主人鉄造氏の年配にふさわしい地味なものを身につけていたが、よく見れば、その頰はつやつやしく、まだ四十歳には間のあるらしい、上品な美しい人であった。
「恐ろしい夢です。僕は今まで誰にも言わなかったけれど、それは口に出すさえ恐ろしかったからです」
「よしなさい。お前は本を読み過ぎたのだ。神秘宗教だとか、神霊学だとか、妙な本ばかり読みふけるものだから、つまらない夢を見るのだ。さあ、もういいから、みんなあちらの居間へ行こう」
 主人がそういって立ち上がるのを、青ざめた美青年は真剣に引きとめた。
「いいえ、僕はしゃべってしまいたいんです。みんなに聞いてもらいたいのです」
「あんなに言うんだから、話させるがいいじゃないか。夢というものは、ばかにできませんよ」
 一郎への助太刀のように、一同のうしろから、不明瞭なしゃがれ声が聞こえてきた。そこの椅子に、からだを二つに折ったようにして腰かけている祖母の声であった。まっ白になった髪をオールばックのように撫でつけた下に、歯がなくなっているのに、なぜか入歯をしていないので、ひどく平べったく見える皺くちゃの顔があった。細い眼で老眼鏡の上から上眼使いをしながら、歯のない口をモグモグさせて物を言う様子は、何か不思議な鳥類のように見えた。おそらく七十歳をくだらぬ老年である。
「ああ、お祖母さまはわかってくれますね。僕その同じ夢を三晩もつづけて見たのです。
 どこだかわからない、地の下のほら穴のようなまっ暗な所なのです。そこに僕が坐っているのです。僕は石の像になって坐っているのです。石で造った像ですから、血も通よわなければ、呼吸もしないのです。そのくせ、眼だけははッキリ見えているのです。
 そのまっ暗闇の空の方から、まるで紐でもって吊り下げられでもするように、まっ逆さまになったはだかの人の姿がスーッと下へ降りてくるのです。闇の中に、その人の姿だけが、まっ白に浮き上がって、恐ろしいほどはッキリ見えるのです。
 そのはだかの人がお父さまなんです。そして、お父さまの両方の眼がつぶれて、ドクドクと血が吹き出しているのです。その次にはお姉さまが、やっぱり逆さまにスーッと降りてくるのです。お姉さまは口をまっ赤にしているんです。ちょうどさっきの大写しのように口から顎にかけて血だらけになっていて、その口から地面まで太い毛糸のような一本の血の筋がつーッと流れているのが、闇の中にクッキリと見えるのです。それから鞠子が、鞠子も可哀そうにやっぱり眼をやられているのです。そして、綺麗なはだかになって、逆さまに落ちてくるのです。いや、落ちてくるのじゃありません。ちょうど窓ガラスを雨の雫がたれるように、ゆっくりゆっくり降りてくるのです。
 僕は恐ろしさに叫ぼうとしても、石像ですから声を出すことができません。駆け寄ろうとしても、立ち上がることができません。ゆっくりゆっくり降りてくるお父さまやお姉さまや鞠子の死骸を、いや、まだ死骸ではないのかもしれませんが、それを身動きもせず、じっと見ていなければならないのです。それが三晩もつづいたのです。僕がどんな気持だったか、おわかりになりますか。
 それだけじゃないのです。まだ上の方から降りてくるやつがあるのです。まっ逆さまに大の字になって、右の眼が空ろになって、その穴からタラタラとまっ赤な液体を垂らして。それが誰だと思います。僕なのです。僕自身なのです。僕はこの眼で僕の無残な姿を見たのです。僕は夢の中でギャッと叫びました。石像は口がきけないけれど、あまりの恐ろしきに、ギャッと叫んだのです。そして眼を覚ますのがおきまりでした。びっしょり脂汗を流していました。だから、僕は三晩とも、夢の終りまで見ていないのです。降りてくるのは僕でおしまいかどうかわかりません。きっとそのあとにまだ誰かの恐ろしい姿があるのです」
 一郎はそこまで言って、ピッタリ口を閉じ、物狂わしくギラギラ光る眼で、家族の人たちを見まわした。
 誰も物を言わなかった。あまりの無気味さに、おてんばの鞠子でさえ、悲鳴を上げることを忘れたように、ポカンと口をあけて、青ざめた顔の中に、おびえきった眼を、大きく見ひらいているばかりであった。
 夫人も綾子も、白蠟のように青ざめていた。主人も妙な顔をして、物忘れでもしたようにぼんやりしていた。気のせいか天井の電燈がひどく薄暗くなっていた。一同が眼を見かわしていると、お互いの眼の中に恐怖の青い焰がチロチロと燃えているように感じられた。
「怖い夢を見たんだね。三晩もかい。前兆だよ。何か恐ろしいことが起こる前ぶれだよ」祖母が念仏でも唱えるように、歯のない口の中で、ブつブつ呟くのが、異様に薄気味わるく聞こえた。
「でも夢だけなれば、僕はそれほどに思わないのですが、もっと変なことがあるんです。僕はこのうちに眼に見えない魂みたいなものが忍び込んでいるんじゃないかと思うんです。そいつがいろんなことをするんです。今に僕たちをみなごろしにするんじゃないかと思うと、ゾーッとしないではいられません。
 何者かがこのうちの中をうろつき廻っている証拠には、僕の部屋に変なことが起こったのです」
 そこまで聞くと、綾子の眼の色がおびえたようになって、美しい唇からかすかな声が漏れた。
「あらっ、一郎さんのお部屋にも?」
 姉と弟とは、今の先、スクリーンの上で恐ろしくくずれたあの顔を見合わせて、ギヨッとしたようにお互いの眼の中を覗き合った。
「じゃあお姉さまの部屋にもかい。僕の部屋では、ホラ、あのベートーヴェンのデスマスクね、あれが壁の上を独りで歩きまわるんだよ。ずっと右側の壁にかけであったのが、朝、部屋にはいってみると左側の壁にかかっているんだ。元の場所へ直しておくと、又その翌日は反対側へ移っているんだ。誰に聞いても知らないっていうんだよ。第一、僕は部屋へ誰もはいらせない癖だろう。夜寝る時にはちゃんとドアに鍵を掛けておくんだ。それにそんな妙なことが起こるんだからね。それだけなら、まだいいんだよ。けさそのデスマスクを見るとね、こちらの眼に」と彼は自分の右の眼を指し示して「ポッカリと黒い穴があいているんだよ」
 人々はさいぜんの映画の恐怖を思い起こして、背筋が寒くなった。あの映画でも、一郎の美しい右の眼にゾッとするような異変が起こったではないか。
「あたしの部屋では、机の引出しがいつもあべこべに差してあるのよ。右の引出しが左に、左の引出しが右に、別に中のものはなくならないの。鞠ちゃんのいたずらかと思ったけれど、聞いてみるとそうじゃないというし、ほかの人も誰も知らないっていうのよ。あたし、一郎さんのように、気になんかしていなかったのだけれど、あなたの部屋もそうだっていうと、おかしいわね」
「お父さま、これでも僕の読書のせいだっておっしゃるのですか」
「なるほど。それは妙だね。お前たちの思い違いじゃないのかい。自分で物の位置を変えておいて、ヒョッと胴忘れしてしまうというようなこともあるもんだよ。化物屋敷じゃあるまいし、独りで物が動くなんて、ばかなことがあるもんか。ははははは」
 主人はわざと気軽に笑ってみせたが、誰もそれに応じてえがおを見せるものはなかった。人々の顔は前にもまして青ざめて行くように見えた。
「むろん独りで動くはずはありません。誰かが動かすのです。眼に見えないやつがこのうちの中を勝手に歩きまわっているのです。僕はなんだか、すぐそばにそいつがいるような気がするんです。こうして話しているのを、どっかその辺で、ニヤニヤ笑いながら聞いているのじゃないかと思うのです」
 一郎はそう言いながら、脅えたようにガラス窓のそとの闇の中を見つめた。すると、人々はその闇の木立の中に、朦朧と黒い人影が現われて、室内の様子を窺っているような気さえするのであった。



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posted by じん at 20:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸川乱歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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