2016年06月01日

江戸川乱歩「暗黒星」書起。「第二回 悪魔の声」を掲載

 『江戸川乱歩 作品集』に収録予定の「暗黒星」の第二回目をお届けいたします。「講談倶楽部」に連載された第一回目の後半部分です。とりあえず半分くらいは書き起こしが終わりました。

   暗黒星 第二回 悪魔の声


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 名探偵明智小五郎は、書斎の肘掛椅子にグッタリともたれこんで、無闇に煙草を吹かしながら、考えごとにふけっていた。あたりには、煙草の煙が濛々と立ちこめて、部屋じゅうが靄に包まれているように見えた。
 伊志田屋敷で無気味な映画事件があった翌々日の夕方のことである。
 煙の中の明智の頭には、今、あの古城のような赤煉瓦の建物が浮かんでいた。その奇妙な建物を背景にして、女のように美しい青年の顔が、二重写しになって頰笑んでいた。
 その前日、名探偵は美青年伊志田一郎の突然の訪問を受けたのであった。そして、古城の中に起こった奇妙な出来事と、一郎の恐ろしい夢の話を聞いたのであった。
 明智はこの美青年に不思議な興味を感じていた。その顔が異様に美しいためばかりではない。今の世に珍らしいその性格に惹きつけられたのだ。彼は肉体から遊離した心霊の存在を語った。そして呪誼とか前兆とかいうものを、心の底から信じているようにみえた。
「僕は怖いのです。誰かにすがりたいのです。父は唯物論者ですから、僕のいうことなど取り上げてくれません。僕はふと先生のことを思い出したのです。これは犯罪ではないかもしれません。しかし、少なくとも僕の家族の生命に関する事件なのです。何かしら恐ろしいことが起こるに違いないのです」
 美青年は応接室のアーム・チェアに腰を浮かすようにして、物に憑かれた眼で明智を見つめながら、真剣な調子で名探偵の判断を乞うた。
「不思議な青年だ。胸の中に冷たい美しい焰が燃えている感じだ。その焰が瞳に写って、あんなに美しくかがやいているのだ」
 明智はその時の青年の異様に熱心な表情を思い浮かべて、心の中に呟いた。
「私は君の恐怖を取り止めもないものだなどとは言わない。何かあるのかもしれない。しかし、ただそれだけの出来事では、まだ私がどうかする時期でないように思う。このまま何事もなくすんでしまえばいいし、もしさらに何か妙なことが起こるようだったら、すぐ報告してください。その報告によって私の考えをきめることにしよう」
 結局、明智はそういう意味の答えをして、青年を帰したのであった。それからついさきほどまで、ほかの事件の処理に追われて、青年のことは忘れるともなく忘れていたのだが、仕事が一段落して、アーム・チェアにもたれこみ、煙草と放心の一と時を楽しむうち、なぜか明智の頭の中に、美青年の姿とその言葉と、彼の住んでいる古城のような建物とが、異様に鮮明に浮き上がってきたのである。
 探偵はわけのわからぬ不安を感じた。妙な胸騒ぎをおぼえた。あの美しい青年の上が、なぜかひどく気遣われた。
「変だぞ。こんな気持は久しく経験しなかったが……」
 明智がそんなことを心に呟いて、また煙草の煙を深く吸い込んだ時であった。突然、卓上電話がけたたましく鳴り響いた。
 彼はその音を聞くや否や、「ああ、やっぱりそうだったか」というような感じがした。彼にも似げなくギョッとしたのだ。
 急いで受話器を耳に当てると、先方は予想の通り伊志田一郎であった。
「先生ですか。いま父も母も皆不在なのです。僕は父の書斎に一人ぼっちで留守番しているのです。先生、聞こえますか。もっと声を低くします。あいつに聞こえるといけないからです」
「えっ、あいつって、誰かそこにいるんですか」
 明智が聞き返しても、先方は構わず話しつづける。例によって物に惣かれた調子だ。
 「廊下にかすかな足音がしたのです。女中などとは違います。まだ見たこともないあいつの足音です。確かにあいつです。先生っ、早くきてください。僕を助けてください。僕はもうからだがしびれたようになって、身動きができないのです。卓上電話の受話器をはずすのがやっとでした。
 ああ、あいつの息の音が聞こえます。ドアの鍵穴から覗いているのです。先生、もっと声を低くしますよ」
 そして、先方の声はほんとうの咡きに変った。
「あ、いけない。もうだめです。先生、早く、早くきてください。ドアがひらきはじめました。少しずつ少しずつひらいているのです」
しばらく無言がつづく。
「あ、やっぱりそうです。あいつです。あいつがはいってきました。手に短万を持っています。先生、先生……」
 そこで言葉が途切れてしまったが、今駆けつけたところで間に合うはずはないので、なお受話器を耳につけて、どんな物音も聞き逃がすまいと注意を集めていると、何か物の擦れ合う音が聞こえていた。青年が誰かと組み合ってでもいる様子だ。烈しい息遣いさえかすかに聞こえる。
 手に汗を握って聞いている身には、非常に長い時間に感じられたが、その無言の格闘はおそらく五分とはかからなかったであろう。やがて、受話器から、なんともいえぬ悲痛な呻き声が耳をつんざくように響いてきた。一郎の声だ。あの美青年の声に違いない。
 明智は心臓をしめつけられるような気がした。青年は救いを求めたのだ。その声をまざまざふかでと聞きながら、助けてやることができなかったのだ。確かに深傷を負っている。もしかしたら一命を失ったかもしれない。あの美しい顔はもう二度とほほえむことがないかもしれない。
 だが、その時であった。放心したように握ったままの受話器から、妙なしゃがれ声が聞こえてきた。はッとして、耳に当てると、電話の向こうで確かに誰かがしゃべっている。ついさいぜんまで一郎青年が救いを求めていたその同じ電話で何者かがしゃべっている。
「お前は明智だね。ウフフフフフ、間に合わなくて気の毒だったねえ。オイ、明智、よくこの声を聞いておくがいい。わかるかい、この声が。ウフフフフフ」
 悪魔の声だ。一郎を殺害した犯人の声だ。犯人が名探偵を嘲笑しているのだ。だが、それはなんという不思議な音調であったろう。男とも女とも、老人とも若者とも、まったく見当のつかぬ調子はずれの声であった。まるで九官鳥が人声をまねしているような妙に間の抜けた感じなのだ。
「おい、そこにいるのは誰だ。何が起こったのだ」
 探偵はむだとは知りながらも、送話口にどなってみないではいられなかった。しかし、むろん返事のあろうはずはない。犯人は言うだけのことを言っておいて、その場を立ち去ってしまったのであろう。いくら耳をすましでも、再び人の声は聞こえなかった。
 ぐずぐずしている場合ではない。何はともあれ現場へ行ってみなければならぬ。明智は、急いで身支度をすると、助手の小林少年を呼んで、自動車を命じさせるのであった。R町の探偵事務所から、K町の伊志田屋敷までは、自動車で十分もかからぬ近距離であった。
 伊志田屋敷の苔むした煉瓦塀の門前で車を降りて、玄関に駆けつけ、呼鈴を押すと、二十歳あまりの学生服を着た青年が、ドアをひらいてノつソリと顔を出した。何事も知らぬ様子である。
 明智は、その青年がこの家の書生であることを確かめた上、名を名乗って、一郎青年に会いたいと告げると、書生はそのまま奥へはいっていったが、間もなく顔色を変えて飛び出してきた。
「た、大変です。一郎さんは大怪我をして倒れていらっしゃいます。早く、早くきてください」
 書生は明智の腕をとらんばかりにして、奥へ案内する。主人をはじめ家族が不在なので、初対面とはいえ、折よく来合わせた探偵にすがるほか分別もないのであろう。
「君はうちにいて、その騒ぎを少しも知らなかったのですか」
 廊下を急ぎながら、明智が訊ねると、書生は申しわけないという表情で、
「実はちょっと外出していましたので、いま帰ったところなのです。何がなんだかさっぱりわりがわかりません」
「女中さんは?」
「女中はいるはずです。それに御隠居さまもいらっしゃるのですが、一郎さんの部屋とはずっと離れていますので、まだお気づきになっていないのでしょう。ちょっとお知らせして参ります」
「いや、それはあとにした方がいいでしょう。怪我人の介抱が第一だ」
 せかせかと話し合いながら、薄暗い階段を上がって、二階の廊下を少し行くと、そこが主人の書斎であった。一郎はその父の書斎で兇漢に襲われたのである。
 書生を先に書斎へはいってみると、夕暮れどきの上に、窓の少ない古風な建物なので、部屋の中は非常に薄暗かったが、その床に倒れている人の姿はたちまち眼にはいった。
 薄闇の中に一郎のあの美しい顔が血に染まって浮き上がって見え、肩から胸にかけて手傷を受けたらしく、その辺を血まみれにして、身をくねらせて横たわっていた。
 予感はむごたらしくも的中したのだ。恐ろしき前兆は今やそのまま現実となって現われたのだ。だが、美青年伊志田一郎はすでに息絶えたのであろうか。妖魔はその第一の犠牲者を完全に屠り去ったのであろうか。
 明智と書生とは、部屋に一歩踏み込んだまま、薄闇の中の血の色の生々しきに、犠牲者に駆けよることも忘れて、しばらくは、主然とその無残な光景を打ち眺めるばかりであった。





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posted by じん at 20:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸川乱歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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