2016年06月02日

江戸川乱歩「暗黒星」書起。「第三回 人間コウモリ」を掲載

 『江戸川乱歩 作品集』に収録予定の「暗黒星」の第三回目をお届けいたします。三回目にして「インバネスの怪物」登場です。インバネスというのは、袖無しで丈の長いコートなんですが、イメージ的には、映画やドラマでシャーロック・ホームズが来ていたコートみたいなものです。


 日本には明治初期に移入されて、明治の中頃に流行したそうです。「暗黒星」は昭和14年の作品ですから、流行遅れのコートを来て、黒覆面した怪物が「人間コウモリ」ということですね。


   暗黒星 第三回 人間コウモリ

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「一郎さん、しっかりしてください」
 書生が近づいて、大声にどなっても、美青年は身動きさえしなかった。
 明智はそのそばにひざまずいて、一郎の呼吸と脈搏を調べた。
「かすかに脈がある。大丈夫だ。君、すぐ電話をかけて医者を呼ぶんだ。あ、その卓上電話を使っちゃいけない。犯人の指紋が残っているかもしれないのだ。ほかに電話があるんだろう」
 明智の注意深い指図に、書生はアタフタと廊下へ出て行った。階段を駆け降りる音が聞こえてくる。電話室は階下にあるのだ。
 あとには、広い書斎に瀕死の負傷者と明智探偵とただ二人であった。夕闇は刻々に夜の色を加えて、部屋の隅々はもう見分けられぬほどとなり、負傷者の美しい顔を彩った血の色が、墨でも塗ったようにドス黒く見えてきた。
 一郎は眼をやられていた。右の眼であった。映画の前兆はそのまま実現したのだ。右の眼から頰にかけておびただしい血潮が溢れていた。しかし、負傷はむろん眼だけではなかった。胸を刺されたらしく、まっ赤なワイシャツを着ているのではないかと疑われるばかりであった。ジュウタンにもドス黒い大きな斑点ができていた。
 無気味な生人形のように、微動もしない負傷者を眺めていると、なんだか妙な感じがした。負傷者ばかりでなく、夕闇の鼠色に塗りこめられた広い部屋全体が、生命を失ったように寂然と静まり返っていた。窓は一カ所半開になっていたけれど、部屋の空気は少しも動いていなかった。まったく風のない日であった。
 明智探偵は負傷者のそばにひざまずいたまま、しかし、眼は凝然と部屋の一方の隅を見つめていた。何かしらそこを見ないではいられないような不思議な感じがあったのだ。
 そこにかすかに揺れているものがあった。まったく風のない夕闇の室内に、そよぐように揺れ動いているものがあった。壁の書棚と書棚のあいだに、何か物を入れる押入れのような箇所があって、その前に垂れた鼠色のカーテンがかすかに動いているのだ。
 むろん風ではない。カーテンの蔭に何か生きものがいるのだ。この家には猫が飼ってあるのかしら。いや、そんな小さな動物ではない。もっと大きいものだ。おそらくは、そこに人間が隠れているのだ。
 明智はさいぜん自宅で聞いた電話の声を思い出していた。男とも女とも、老人とも若者とも判じがたい無気味なしわがれ声であった。犯人なのだ。一郎を刺した殺人者なのだ。あいつがカーテンの蔭に身を潜めているのではないか。
 明智はそのものに向かって、何か言葉をかけようとしたが、思いとどまった。それではこちらの負けになってしまう。だまっている方がいい。だまって相手の出ようを見守っている方がいい。
 夕闇の中に、息づまるような烈しい無言の闘争がつづいた。互いにそれを知っていたのだ。そして、脂汗を流しながらだまり返っていたのだ。明智は武器を持たなかった。相手は少なくとも一とふりの短刀を持っているはずだ。探偵のがわには一段の精神力が必要であった。
 睨み合いは、結局、犯人の負けであった。それほど明智探偵は落ちつきを失わなかったのだ。犯人はおそらく、ただ凝然と見つめられている無気味さに堪えられなくなったのであろう。カーテンがひときわ烈しく揺れはじめた。そしてその蔭から、サッと黒いものが姿を現わし、風のようにドアに向かって走った。
 それは巨大なコウモリのようなものであった。とっさには見分けることができなかったが、あとで考えてみると、その怪物は頭部全体に黒布を巻きつけ、両眼の部分だけに小さな二つの穴をあけていた。ダブダブのインバネスのようなもので、全身を包んでいた。その裾がすっかり足を隠していたのを見ると、人並よりは背の低いやつのように思われたが、もしかしたら、足を曲げて、わざと低く見せているのかもしれなかった。
 それが、背中を丸くして、サッと走って行くうしろ姿に、なんともいえぬ醜怪な、兇悪なものが感じられた。黒いインバネスの両袖は翅のようにひるがえって、ちょうどコウモリそっくりの、いやらしい姿であった。
 その大コウモリの翅の中に、血に濡れた短刀が隠されていることはわかっていたが、明智探偵は少しも躊躇しなかった。ただちにあとを追って走り出した。
 ガランとした薄暗い廊下、怪物は表階段を降りなかで、奥の方へ走って行く。猫のように足音を立てない走り方だ。まるで、コウモリが宙を羽搏いているような感じだ。
 出発の時に、追うものと追われるもののあいだに、五、六間のひらきがあった。それが、怪物が廊下の突き当たりの狭い裏階段を駆け降りるころには、二、三間に縮められていた。
 大コウモリは、裏階段を一とすべりに駆け下りて、階下の廊下をさらに奥へ奥へと走った。
 少し行くと、廊下が鉤の手になっていた。怪物はその角を曲がりながら、背を丸めて、ヒョイとこちらを振り返った。黒布の二つの切れ目が、薄闇の中にキラリと光った。その眼が、気のせいか、意味ありげに薄笑っているように見えた。
「待てっ!」
 明智探偵がはじめて声をかけた。相手を射すくめるような、烈しい気合いのこもった一と声であった。
 だが、怪物はひるまなかった。妙な恰好でお辞儀でもするような仕草をしたかと思うと、そのまま曲がり角の向こうに姿を消してしまった。
 いうまでもなく、明智はただちにあとを追って、そこが行き止まりになっていた。だが、曲者は? 同じ角を曲がった。見ると、鉤の手廊下はわずか数秒おくれたばかりなのに、もうそこには人の影さえなかったではないか。
 廊下の左側に窓があって、そのそとは庭園の木立ちであった。明智は窓に駆け寄った。ガラス戸は閉まっていた。それを引きあげて、もう暮れきった庭園を見渡したが、怪物の姿はどこにもなかった。
 蒸発してしまったのだ。幽霊のように消え失せてしまったのだ。
さすがの明智も、ややうろたえて、キョロキョロとあたりを見まわした。窓のほかには、どこにも逃げ道はないのだ。しかし、廊下の右側にただ一つのドアがある。誰かの部屋らしい。探偵はいきなり把手をひねって、そのドアをひらいた。
 覗き込むと、薄暗い部屋はシーンと静まり返っている。狭い控えの間があって、その奥に広い部屋があるらしい。踏み込んで、控えの間と奥との境のカーテンを引きあけた。
「おや、どなたですね」
 とがめるようなしわがれ声が聞こえてきた。
 よく見ると、そこは畳敷きの日本間になっていて、向こうの窓寄りに蒲団が敷いであった。その蒲団の中にモグモグと動いているものがある。皺くちゃのお婆さんであった。
「あ、失礼しました。今ここで誰か逃げ込んできませんでしたか。黒い覆面をして、インバネスを着たやつです」
 明智がドギマギして訊ねると、老人は寝間着姿で床の上に起き上がって、あきれたようにこちらを見つめた。
「いいえ、誰もはいってきませんが、あなた、いったいどなたですね」
 それは一郎の祖母であった。老年のこととて、昼間も蒲団の中にはいって、うたた寝をしていたのであろう。
 明智は名を名乗って、簡単に挨拶すると、スイッチのありかを訊ねて、天井の電燈をつけた。だが、パッと明かるくなった部屋の中には、別段怪しむべき点もなかった。そこには二た棹の簞笥と小机と鏡台が置いてあるばかり、人の隠れる場所とてもない。老人の許しを受けて座敷に上がり、押入れをひらいてみたが、そこにも別条はなかった。
 部屋の窓のそとには、庭園が見えていたが、そのガラス戸もぴったり閉めであった。いくらうたた寝をしていたといっても、その窓が開閉されたとすれば、老人が気づかぬはずはない。
 そうしているところで騒ぎを知って、書生や女中が駆けつけてきたので、さらに手分けをして屋内屋外を調べてみたが、結局、大コウモリの行方はまったく不明であった。庭にもなんの足跡も残っていなかった。





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posted by じん at 20:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸川乱歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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