2016年06月06日

江戸川乱歩「暗黒星」書起。「第七回 美しき嫌疑者」を掲載

江戸川乱歩 作品集』に収録予定の「暗黒星」の第七回目をお届けいたします。


 先日、ブックオフで光文社文庫の江戸川乱歩全集を何冊か見つけたので、二冊ほど買いました。「黄金仮面」と「化人幻戯」が含まれている二冊です。「月と手袋」と「影男」が収録されている巻も持っているので、あと何冊か揃えると、明智小五郎の作品はすべて揃いそうです。もっとも何時になったら書き起こせるでしょうか。先に読んで楽しむしかないですね。


   暗黒星 第七回 美しき嫌疑者

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 一郎青年は、犯人はこの家の中にいるかもしれないという、恐ろしい疑いを明智に漏らした。明智もまたひそかにそういうことを想像しないではなかった。この奇怪な邸内に住む変り者の富豪の一族には、何かしら無気味な秘密があった。家族のものが、お互い同士で疑い合っているような、異様に気づまりな空気がただよっていた。
 まさか綾子が実の弟の一郎を傷つけた殺人鬼だとは考えられない。だが、男さえ薄気味わるく思う円塔に、深夜ただ一人登って、あんな妙なことをしていたのをみると、彼女は何かしら事件に関係を持っているらしく思われる。もしかしたら共犯者ではないのか。あの昼間覆面の怪人物の相棒ではないのか。
 明智は彼女が自分の寝室へはいるのを見届けた上、その足で二階の主人伊志田氏の部屋を訪ねた。相手は若い娘さんなのだから、明智自身が直接詰問するよりは、お父さんに話して、おだやかに訊ねてもらう方が穏当でもあり、有効でもあると考えたからだ。
 主人はまだ起きていて、パジャマの上にナイト・ガウンを羽織って、明智を書斎に通した。一郎が怪物のために傷つけられた、あの書斎である。伊志田氏はそこを平気で使用しているのだ。
 明智が綾子の異様な行動を詳しく報告すると、さすがに伊志田氏も顔色を変えて、すぐ呼び鈴を押して、書生に綾子を呼んでくるようにと命じた。
 しばらくすると、ドアが静かにひらいて、あの白い洋装のままの綾子がはいってきた。あでやかな顔が少しひきしまって、心持ち青ざめているほかには、少しも取り乱した様子がない。この夜ふけになんの用事かと、けげんらしい表情さえ浮かべている。明智はそれを見て、まだうら若い綾子の名優ぶりに感嘆しないではいられなかった。
 彼女はほのかなヘリオトロープの匂いを発散させながら、父のデスクのそばに近づくと、そこに立っている有本医師に軽く頭を下げて会釈した。伊志田氏と一郎青年のほかは、有本医師が明智小五郎であることを、誰もまだ知らなかったのだ。
「そこへお掛け。お前いま塔の中へはいっていたそうじゃないか。この夜ふけに、
あんな所でいったい何をしていたんだね」
 伊志田氏は、いきなりそれを訊ねた。彼は娘の行動を深くも疑わず、わけもなくその理由を説明して、明智探偵の疑念をはらしてくれるものと、信じこんでいる様子であった。
 綾子はそれを聞くと、チラッと有本医師を眺めた。さてはこの人があれを見ていたのかと、とっさに察して、彼がただの医師でないことを疑ぐった様子である。だが、彼女は別にうろたえることもなく、ごく自然な驚きの表情を示して、ぬけぬけと嘘をついた。
「えっ、塔の中へ? まあ、いやですわ、お父さま。あたしあんな気味のわるい所、昼間だって、はいってみたことさえありませんわ。どうしてそんなことをお開きになるの?」
 実に名優である。それに、この娘は父に対して、なんだか妙によそよそしい口のききかたをするではないか。
「綾子、嘘ではないだろうね。まさかお父さんに、この方の前で恥をかかせるのではあるまいね。お前は知るまいけれど、この有本先生は、実は素人探偵の明智小五郎さんなのだ。わしと一郎とでお願いして、うちの警戒に当たっていただいているのだ」
 それを聞くと、綾子の美しい眼が、何かギョッとしたように、すばやく明智を盗み見た。ヘリオトロープの匂いが、一そう強く明智の鼻孔を刺戟した。
「綾子、この明智さんが、お前が塔で妙なことをしているのを、ごらんになったのだよ。わしは、明智さんの前で、お前の弁明を聞かなければならない。こういう際だから、つまらないまねをすると、どんな疑いを受けるかしれないのだよ。さあ、わけを話してごらん」
 綾子は聞いているうちに、だんだん青ざめて行った。心の騒ぎをそとに現わすまいと一所懸命になっている様子が、痛々しいほどであった。だが、彼女は結局その闘争に打ち勝った。あくまでしらを切ろうとしているのだ。
「まあ、あたしが塔の中で? それを有本先生がごらんになったのですって? 妙ですわねえ。あたしちっとも覚えがありません。塔なんかへ近づきもしませんわ。有本先生、いいえ、明智先生、ほんとうにあたしをごらんになりましたの?」
 彼女はまた元の名優に立ち帰って、大胆にも名探偵に挑戦するかのような態度をとった。
「見たのです。まことに不作法なことですが、職務上いたしかたがなかったのです。僕はあなたが塔の三階でなすっていたことを、闇の中からすっかり見てしまったのです」
「まあ、三階で? あたし何をしていましたの?」
「手提げ電燈をつけたり消したりして、窓のそとの誰かへ通信をしていらしったのです」
「まあ、思いもよらないことですわ。あたし、今晩はずっと、お部屋で本を読んでいて、どこへも出ませんでした。何かの間違いですわ。明智先生、誰かほかの人とお見違えなすったのじゃありません?」
「いいえ、僕ははッキリあなたの姿を見たのです。服装もその通りでした。そして、その人は塔を出てから、確かにあなたの部屋へはいって行ったのです」
「まあ、あたしの部屋へ?」
 綾子はゾーッとしたように、ソッとうしろを見て、恐怖に耐えぬ様子をした。
「でも、あたしの部屋へは誰もはいってきませんでしたし、あたしは本をよんでいたのですから、何かの間違いですわ。そんなことあるわけがありませんわ」
「あなたがそれほどにおっしゃるのでしたら、僕の見違いだったかもしれません。しかし、この家に、あなたと同じ服装をした、同じ背恰好の、しかも顔まで同じ人が、ほかにいるとも思えませんし、また僕が起きながら夢を見ていたとも考えられませんからね」明智はおだやかに反駁した。
「まあ、あたしとそっくりの人なんて……あたしはほんとうに覚えがないのですから、もしかしたら、あたしと同じ服装をした幽霊みたいなものが、うちの中をさまよっていたのじゃないでしょうか」
 綾子が青ざめた顔で、オズオズとささやくようにそれを言った時には、二人のおとなもつい誘いこまれて、ふと怪談めいた恐怖を感じないではいられなかった。
 綾子と寸分違わないもう一人の娘が、この広い建物のどこかに隠れているのだろうか。そして、その娘が犯人の手先となって、邸内をさまよい歩き、さまざまの奇怪な行動をしているのではないだろうか。
 だが、明智はあのとき綾子の顔を見たのだ。たとえよく似た娘が変装していたのだとしても、明智ともあろうものに、その見分けがつかなかったとは考えられぬ。
「綾子、お前そんなことを言って、わしをごまかすのじゃないだろうね。ほんとうのことをいうんだよ。どんなこみ入った事情があるにもせよ、お父さんに隠し立てをしてはいけない。さあ、すっかり話してごらん」
 伊志田氏は唯物論者であった。怪談を信ずることはできない。綾子は何か秘密を持っているのかもしれないと考えたのである。
 綾子はそういう父の顔を、恨めしげにじっと見つめていたが、突然、恰好のよい唇の隅が、笑い出しでもするように、キューッと引きつった。
「お父さま、まだ疑っていらっしゃるの?」
 烈しい口調で言ったかと思うと、悲しみにゆがんでくる顔を、はッと両手で蔽い隠し、そのまま肩を震わせて泣き入るのであった。
 はじめは声を嚙み殺していたが、耐えられなくなったのか、ついには子供のように声を立てて泣き出した。顔を蔽っている両手の指がみるみる涙で濡れて行く。
「あんまりだわ……あんまりだわ……あたしが、一郎さんをあんな目にあわせたやつと、ぐるだなんて……そ、そんなことが、できるとお思いになって……」
 押し殺しても押し殺しても、突き上げてくる泣き声のあいだに、恨みの言葉が、ほとんど言葉をなさぬほど途切れ途切れに聞こえた。
 この感情の爆発には、冷静な伊志田氏もつい慌てないではいられなかった。彼は思わず椅子から立ち上がって、綾子の背中に手を当てながら、やさしくなだめるのであった。
「何も泣く事はない。もういい。もういい。お父さんは、お前が犯罪に関係があるなんて考えたわけじゃないよ。そんなことがあるはずはない。ただ、お前がどうして、塔の中などへはいったか、訊ねてみただけさ。さあ、もう泣くんじゃない」
「だから、だから、あたし、塔なんかへ、はいった覚えはないと言っているのに……」
 綾子はあくまで冤罪の恨みごとを言い立てる。
「よしよし、それもわかった。お前のいうように、何かの間違いだろう。さあ、もう行っておやすみ。お父さんにはよくわかったのだから。ね、さあ、部屋へお帰り」
 困り果てて、だだっ子をなだめすかしているところで泣き声を聞きつけたのか、伊志田夫人の君代がはいってきたので、伊志田氏はそれをよい潮にして、君代に手短かに仔細を語り、綾子をなだめて、部屋へ連れて行くように命じるのであった。



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posted by じん at 21:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸川乱歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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