2016年06月07日

江戸川乱歩「暗黒星」書起。「第八回 名探偵の奇禍」を掲載

江戸川乱歩 作品集』に収録予定の「暗黒星」の第八回目をお届けいたします。ちなみに「奇禍」とは思いがけない災難という意味です。明智小五郎が災難に遭うというトピックです。


「影男」を読みました。明智小五郎作品では最後の作品です。実際には昭和30年には「影男」と「月と手袋」の二作品があります。「月と手袋」は短編で昭和30年の四月で、「影男」は昭和30年の一月から連載されているので、連載の終了時から云うと、「影男」が最後の明智作品です。次は「化人幻戯」ですね。ちなみに戦後に書かれた明智作品は上記3作品と「兇器」の4つですね。


   暗黒星 第八回 名探偵の奇禍


 結局、その夜はうやむやに終ってしまった。家庭は裁判所ではないのだし、伊志田氏も明智探偵も裁判官ではないのだから、泣き入る綾子を無慈悲に追及することはできなかった。
「とんだお騒がせをして、申しわけありません」
 明智が詫びると、伊志田氏はきまりわるそうにしながら、それを打ち消して、
「いや、大きななりをして、まるで子供です。ああ泣かれては始末にいけません。あなたが確かにごらんになったのですから、綾子には何か私に隠している秘密があるのかもしれませんが、まさか共犯者というようなことはありますまい。まあ、もう少し様子を見ることにしましょう。あなたも、それとなく気をつけていてくださるようにお願いします」
 と、穏当な意見であった。
 明智が一郎青年の病室へ戻ると、負傷者は熱心に塔の出来事を訊ねたが、明智は伊志田氏との約束もあったので、綾子の名は出さず、怪しい人影を見たが、つい取り逃がしてしまったとのみ答えておいた。
 それから三日のあいだは、別段のこともなく過ぎ去った。綾子はあれ以来、自室にこもって神妙にしているし、塔の窓に怪しい光りもののするようなことも起こらなかった。
 一郎の胸の傷も案外経過がよく、二、三日もすれば繃帯が取れるほど肉が上がっていた。眼の下の傷はほとんど快癒して、鬱陶しい顔の繃帯はすでに取り去っていた。
 もう看病の必要もなく、明智の有本医師は、この上伊志田邸に泊まり込んでいる口実がないほどであったが、しかし、探偵としての職務は終ったわけでなく、一日でも永く邸内にとどまっていたかったし、それに一郎がしきりに引きとめるので、つい滞在を延ばしているのであった。
 さて、黒覆面の怪物の殺人未遂事件があってから七日目の夜のことであった。伊志田家の人は、緊張に慣れて、いくらか高をくくるような気持になっていた。五人に増した書生のうち、二人までが家庭の都合で暇を取って、七日目には、元からいた書生を合わせて三人しか残っていなかったが、人々はさして心細がるようなこともなく、主人の伊志田氏などは、騒ぎのために延ばしていた用件を果たすために、午後から外出して、夜がふけても帰らなかった。
 だが、悪魔は、そういうふうに一同が気をゆるすのを待っていたのだ。そして、その夜、主人の不在を見すまして、第二の犠牲者を屠るべく、再びあのいやらしい姿を現わしたのである。
 明智の有本医師は、その晩もいつものように、邸内の巡回をおこたらなかった。一郎青年が眠るのを見て、自分にあてがわれた客用の寝室に引き取ったが、そのままベッドにもはいらず、十一時頃には、部屋を出て、人々の寝静まった廊下を、足音を忍ばせながら歩きまわるのであった。
 階下を一巡して、洗面所にはいるために、湯殿の前を通りかかると、そのガラス窓の中に電燈がついてボチャボチャと湯を使う音が聞こえていた。家内の誰かが湯にはいっているのであろう。だが、少し遅すぎるようだなと思いながら、きして気にも止めず、洗面所にはいり、しばらくしてそこを出ると、もう湯殿のガラス窓はまっ暗になっていて、今そこのドアを出たらしい人影が、廊下を曲がって行くうしろ姿が、チラッと眼にはいった。
 明智はそのうしろ姿を見て、おやっと思った。気のせいか、それは伊志田家の人ではないように感じられた。なんだかまっ黒なものを着て、その裾が外套のようにフワフワしていた。男とも女とも想像がつかなかった。
 明智は足音を盗んで、そのあとを追った。廊下の角を曲がると、遠くの電燈の薄暗い光の中を、影のようなものが、音もなく走って行くのが見えた。おお、あいつだ。黒覆面に黒いインバネスを着たあの怪物だ。
 しかし、明智はあわてて声を立てるようなことはしなかった。相手が気づいていないのを幸い、どこへ行くのか突きとめてやろうと考え、あくまでも忍びやかに追跡した。
 五、六間行くと、また曲がり角があった。黒い怪物はさすがに用心深く、その角を曲がる時、ヒョイとうしろを振り返った。そして、たちまち追跡者の姿を認めてしまった。いくら機敏な探偵でも、どこに隠れる場所もない狭い廊下では、とっさの場合どうすることもできなかったのだ。
 悟られてしまったからには、もうためらっていることはない。明智は俄かに恐ろしい速度で駆け出しながら、「待てっ」とどなりつけた。
 その角を曲がると、廊下は行き止まりになっていた。右側は壁、左側にはただ一つ、住む人もない空き部屋がある。追いつめられた怪物は、その空き部屋の中へ逃げこんでしまった。
 明智は一と飛びにドアの前に近づきながら、ふと数日前、この建物を家捜ししたときの記憶を呼び起こした。この空き部屋の窓には確か鉄格子がはめてあった。もしその記憶が誤まりでないとすれば、怪物は袋の鼠なのだ。
「しめたぞ」
 思わずつぶやいて、ドアに手をかけると、中から押えている様子もなく、わけもなくひらいた。だが、部屋の中はまっ暗だ。電燈は引いてあるに違いないが、空き部屋のことだから、電球がついているかどうかわからない。入口に近い壁をさぐってみると、幸いにも、スイッチが手に触れたので、ともかくもそれを押してみた。すると、あてうまいぐあいに、パッと電燈がついたのである。
 急いで部屋の中を見まわすと、怪物はどこへ隠れたのか姿もない。片隅にこわれかかった椅子が三脚ほうり出してあるほかに、なんの調度もないガランとした部屋だ。怪物は又しでも妖術を使って、消え失せてしまったのであろうか。
 いや、そうではない。窓の前に厚いカーテンが懸けたままになっていて、それが風もないのにかすかに揺れているではないか。隠れているのだ。あいつは窓の格子にさえぎられて、そとへ逃げ出すとともできず、カーテンの蔭にじっと身を潜めているのだ。明智はつカつカとその前に近づいて行った。
 だが、明智は少し大胆すぎはしなかったであろうか。怪物はなぜ避け道もないこの部屋に隠れたのだ。これまでの手際でもわかるように、犯人はそれほど無考えなやつではない。もしかしたら、彼は逃げると見せかけて、明智をここへおびきよせたのではないのだろうか。さすがの名探偵もそこまでは考え及ばなかった。怪物を追いつめた興奮に夢中になっていた。
「おい、もうだめだよ。君は袋の鼠だ。さあ、そんな所に隠れていないで、ここへ出てきたまえ」
 明智はいつもの癖で、まるで友だちにでも対するようにおだやかに声をかけた。
 相手は答えなかった。答える代りにカーテンの隙間から、あの無気味な覆面の顔をヌーッと出して、クックッと笑った。男とも女とも、老人とも、若者とも、判断のつかぬ異様な声でクックッと笑った。
 おお、なんという大胆不敵なやつだ。顔を出したばかりでなく、彼は黒マントの全身を現わして、逆に明智の方へジリジリと詰めよってきた。二人のあいだは三尺とは隔たぬ近さになった。相手の肩が呼吸のたびに静かに動いているのがわかる。
 怪物はさらに一歩前進した。そして、コウモリのようなインバネスがフワリと揺れたかと思うと、おお、あの匂いが、ヘリオトロープの匂いが、ほのかに明智の鼻孔をくすぐった。
「おお、君は……」
 思わず叫んで、その肩を掴もうとした時、インバネスの下から、チカッと光るものが覗いた。そして、何か烈しい物音がして、部屋の空気が恐ろしく動揺した。

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 アッという叫び声と共に、倒れたのは明智の方であった。怪物は今度はピストルを用意していたのだ。そのピストルの弾丸が名探偵を倒したのだ。
 明智が倒れたのを見ると、怪物はコウモリのように、マントをひるがえして、サッと部屋を飛び出して、どことも知れず逃げ去ってしまった。
 やがて、ピストルの音に驚いた書生たちが駆けつけてきた。そして、空き部屋に重傷にうめく有本医師を発見した。右手で押えた左の肩口から血があふれ、手の甲を染めて、ポタポタと床にしたたっていた。
「先生、しっかりしてください。あいつですか。あいつがまた現われたのですか」
 刑事上がりの書生が、有本医師を抱き起こしながら叫んだ。
 有本医師は痛手に口をきく力もないように見えた。だが、失神せんとする気力を奮い起こして、僅かに唇を動かした。
「湯殿を、早く、湯殿を調べてくれ」
 なんの意味かわからなかったけれど、ほかの二人の書生はいきなり湯殿の方へ駆け出した。途中の廊下で、騒ぎを聞きつけて病床から起き出してきた一郎青年に出会った。
「どうしたんだ。何事が起こったんだ」
「有本先生が大変です。ピストルで打たれたのです」
「えっ、有本先生が?」
 一郎はさっと顔色を変えて、教えられた空き部屋の方へ飛んで行った。
 二人の書生は湯殿の前に駆けつけたが、恐ろしくて、急にドアをひらく気にはなれなかった。その前に見張り番のように立ちはだかったまま、意味もない言葉争いをしながら、誰か応援者が来てくれるのを心待ちにしていた。
 そうしているところで一郎青年が息を切らして走ってきた。やはり負傷者の指図で、恐ろしい予感におびえながら、湯殿へ駆けつけたのだ。
「君たち、何をしているんだ。早く中へはいって調べてみるんだ」
 応援者に力を得て、書生の一人が思い切ってドアをあけた。三人は脱衣場になだれこんだ。一郎がスイッチを押すと、パッと電燈がついた。
 だが、まだ浴場とのあいだに磨りガラスの戸がある。ガラガラと音を立ててそれがひらかれた。そして、タイル張りの浴槽を一と眼見たかと思うと、三人の口からギョッとするような叫び声が漏れ、化石したかのように、その場に立ちすくんでしまった。



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posted by じん at 21:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸川乱歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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