2016年06月14日

江戸川乱歩「暗黒星」書起。「第十回 壁の穴 その2」を掲載

 『江戸川乱歩 作品集』に収録予定の「暗黒星」の第十回目をお届けいたします。
 前回、アップした「壁の穴」は創元社版では見出しが別々になっていまして、「壁の穴」の途中でその回の原稿枚数が終わり、続きは「次回」という構成になっていたようです。というわけで今回はその続きです。


 光文社版の江戸川乱歩全集には、全部ではありませんが、作者の解説が掲載されています。明智小五郎作品では、作者の解説のあるものはすべて掲載したいと思っておりますが、そうなると、江戸川乱歩全集の明智作品掲載本を全部手に入れる必要がありそうで、けっこうたいへんそう。もっとも差別化にはなるでしょうけどね。

 『江戸川乱歩 作品集』はKindle本で「江戸川乱歩」で検索すると、最初のページにリストされるようになりました。ありがとうございます。皆様のおかげです。



   暗黒星 第十回 壁の穴 その2

20160614.jpg

 さまざまの事情が彼の想像を裏書きしていたので、明智も一郎の説明を聞いて、その推論に同意を表しないわけにはいかなかった。
 だが、この考えが正しいとすると、実に意外な人物を犯人として疑わねばならないのだ。その壁の穴に人知れずそういう仕掛けをすることができるものは、前後の事情から判断して、鞠子の隣室を居間としている綾子──被害者の実の姉の綾子──のほかになかったからである。
 一郎は論理の筋道をたどって行って結局わが姉の綾子を疑わねばならぬ窮地に立った。彼はさすがにそれと名ざして言うことはできなかったけれど、その恐ろしい結論をもたらして、敬慕する明智探偵の判断を何ごうとしたのである。
 一郎の美しい顔は今にも泣き出しそうにゆがんでいた。日頃から青白い顔がひとしお青ざめて、病人のように見えた。
「で、君はその人を真犯人と疑がっているのだね」
 ベッドの明智が思いやり深く、静かな声で訊ねた。
「僕は信じられないのです。しかし、あらゆる可能性を排除して行って、あとに残ったたった一つの結論がこれなのです。僕の推理が間違っているのでしょうか。できるならば、先生にその間違いを指摘していただきたいのです」
 一郎は恐ろしいほど真剣な表情であった。
「僕は君が考えているほど、決定的だとは思っていない。しかし……残念なことに、あの人にはほかにもいろいろ困った情況が揃っているのだし……」
 明智はそれを言おうか言うまいかとためらっているように見えた。
「えっ、ほかにもいろいろって、それはどんなことですか」
「君にはまだ言わなかったけれど、お父さんはもうご存知のことなんだ。隠しておいても仕方がない。それよりもすっかり話し合って君の考えも聞く方がいいかもしれない。いつかの晩、君があの搭の窓に妙な光りものを見つけて、僕が塔へ調べに行ったことがあるね」
 明智はその夜の異様な光景をまざまざと思い浮かべているもののように、宙を見ながら言った。
「ええ、覚えています。あのとき先生のお帰りが大へん手間どったので、何があったのかと、僕はうるさくおたずねしたのだげれど、先生はなぜかあいまいにしかお答えにならなかったのです」
「君に聞かせて興奮させては、からだにさわると思ったからだよ。実はあの時、塔の三階の窓から、屋敷のそとにいる誰かに懐中電燈で合図をしていたのは、綾子さんだった。僕は顔も見たし、その人が綾子さんの居間へはいったのも見届けた。綾子さんの愛用しているヘリオトロープの匂いが、なぜかふだんよりも強く匂っていた」
 明智はそれからあとの、読者がすでにご存知の出来事を詳しく物語った。
「お父さんは綾子さんを呼びつけて、きびしく問いただされたのだが、綾子さんはまったく塔にのぼった覚えはないと言って、しまいには、ひどく泣き出してしまった。
 綾子さんがあまり興奮するので、それ以上問いつめるわけにもいかず、そのままになってしまったが、僕の見たことは間違いないのだから、たとえ殺人事件に関係はないにしても、綾子さんが塔にのぼって、妙な合図をしていたという事実は動かせない」
「そうですか。姉さんがそんなことをしたんですか。でもそれは怪しい行動をしたというだけで、直接の証拠ではありませんね」
「ウン、その晩の出来事だけを言えばね」
 明智は気の毒そうに一郎の美しい顔を見た。
「えっ、じゃあ、まだほかにも何かあるんですか」
「湯殿の事件の時にね、僕はあの覆面のやつを空き部屋の中へ追いつめて、面と向き合ったのだが、その時、またヘリオトロープの匂いが烈しく僕の鼻を打ったのだよ」
 明智はそこで言葉を切って、じっと相手の顔を見た。一郎はギョッとしたように眼の色を変えて明智を見返した。しばらく異様な沈黙がつづいた。
 ああ、それではあの覆面の怪物は最初から綾子だったのであろうか。男か女か老人か若者か、まったく見当のつかぬ声、身のたけを隠したダブダプのインバネス、あのインバネスの中には、思いもよらぬかよわい女性の肉体が包まれていたのであろうか。
 この考えは、その人の弟である一郎はもとより、事に慣れた明智小五郎をさえ、慄然としてわが理性を疑わせるようなものであった。ああ、いかにしてかくのごときことが可能なのであはたちろう。あの牡丹のように美しい二十歳を越したばかりの娘が、人を殺し得るのであろうか。しかもその被害者は、みな彼女の家族なのだ。弟を傷つけ、母を殺し、妹を殺す。そこにいかなる動機を想像し得るのであろうか。
「僕は信じられません、百の証拠があっても、あの人にそんな恐ろしいまねができるとは考えられません」
 一郎は唇をワナワナと震わせながら、自分自身の心を説き伏せようとするかのように、強く言いはなった。
「一つ最初から考えてみよう。君はあいつの襲撃を受けてとっ組み合ったことがあるんだね。その時の手ざわりが思い出せないかね。いくら興奮していても、男の骨組と女のからだとの区別ぐらいはつくと思うが」
 一郎はそれを聞いて、なぜかはっとしたように見えた。そして、少しのあいだ返事をためらっていたが、やがて力のない声で、
「妙にお思いでしょうが、まったく記憶がないのです。むろんその時は、相手が女だなんて思いもよらなかったのですが……」
 とあいまいに答えた。やっぱり相手の肉体に女を感じたのかもしれない。それをそうとは言い得ない様子である。
「すると、最初の事件には、綾子さんの嫌疑をはらす積極的な証拠はないわけだね。
 あの時、僕はカーテンの蔭の曲者を発見して追いかけたが、ご隠居の部屋の前で、かき消すように姿を見失ってしまった。
 僕はすぐ御老人の部屋へはいって、誰か逃げこんでこなかったかとお訊ねしたんだが、御老人は誰もこないという御返事だった。
 僕はその時、御老人が犯人を知っていて、部屋へはいってきたのを、窓から庭へでも逃がしてやって、素知らぬ顔をしていらっしゃるのじゃないかと、妙な邪推をした。君だからこんなことまで話すのだが、僕は大へん礼を失することだけれど、御老人を疑いさえした。
 だが、それはただ想像にすぎない。確証があるわけではない。しかしね、もし犯人がいま僕らが問題にしている人だったとしたら、御老人は孫をかばってやろうという気持になられなかったとは言えないね。あの時の情況は綾子さんにとって決して有利ではないわりだよ。
 綾子さんはおばあさんに可愛がられているのだろうね」
「ええ、僕ら兄妹のうちでは一ばんお気に入りです」
 そして、二人は少しのあいだ、だまったまま顔を見合わせていたが、やがて明智は又はじめる。
「第二の事件の湯殿の場合も、僕が犯人を追って、ヘリオトロープの匂いを嘆いだのだから、これも不利な情況だ。
 第三の鞠子ちゃんの場合は、君が壁の穴のからくりを発見した。そして、そういう仕掛けのできるのは、さし当たって、あの人のほかにはない。
 鞠子ちゃんの事件があった時、覆面のやつが庭の煉瓦塀の上を歩いて、君たちに姿を見せた。そして、それからしばらくして綾子さんが外出から帰ってきた。ここでもアリばイは成り立た
ないわけだね。
 そのほかに、塔の上の怪しい行動もあるのだから、もしこれが君の姉さんでなかったら、さっそく被疑者としての処置を講じなければならないのだが……」
 考えるほど、綾子の嫌疑は濃厚になるばかりであった。
 だが、綾子への疑いが深まれば、深まるほど、この推定は化物じみたものになって行った。二十歳の娘と、そんな大犯罪とを結びつけることは、どう考えてみても気違いじみていた。彼女にそれほどの大それた腕前があろうとも思えなかったし、また想像し得べき動機がまったくないと言ってもよかった。
「僕は兄妹の感情としては、微塵も疑う気持にはなれません。しかし、理論はやっぱりあの人を指さしているようです。この矛盾をどう解いたらいいのでしょう。僕は外見には少しもわからない精神病というものを、ふと考えてみたのですが……」
 一郎は沈んだ声で、問題にさらに新らしい方向を与えた。思いあまったあげく、精神病にまで考え及んだのであろう。
「二重人格だね」
「ええ、そうとでも考えなければ、この謎は解けないような気がするのです」
 ああ、一郎は彼の姉にジーキル、ハイドの二重人格を想像せんとしているのだ。伊志田邸に立ちこめる悪鬼の呪いは、うら若き女性の心に巣喰うはイドであったのだろうか。昼間は世に聞こえた大学者、夜は殺人の野獣と変る、あのジーキル、ハイドの魂が、都会の盲点に隠れる中世風の建物の古塔の中へ、今や再生したのであろうか。



◆江戸川乱歩 作品集 決定版
www.amazon.co.jp




【関連する記事】
posted by じん at 22:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸川乱歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。