2016年06月29日

江戸川乱歩「暗黒星」書起。「第十六回 狂気の家」を掲載

江戸川乱歩 作品集』に収録予定の「暗黒星」の第十六回目をお届けいたします。この辺りから明智探偵の巻き返しの始まり始まりです。


 江戸川乱歩には連作小説が二つあって、いずれも初回を書いています。

江川蘭子
悪霊物語

の二つです。いずれも乱歩らしさが出ていて、それだけでも読みがいのある作品です。長いのは大変なので、先にこの二つの書き起こしをしようかと目論んでいます。「江川蘭子」はもちろん、江戸川乱歩のもじりです。


   暗黒星 第十六回 狂気の家

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 二人の刑事は案外やすやすと目的を達した幸運を喜びながら、番頭を先に立てて、二階の綾子の部屋を襲った。
 三島刑事の指図で、先ず番頭が襖をあけた。
「ごめんくださいまし」
 猫撫で声で、静かに部屋へはいって行ったが、二たこと三ことなにか言っていると思ううちに、おやっという、唯ならぬ叫び声が聞こえてきた。
「旦那、もぬけの殻です。これごらんなさい。こんなもので、まるで寝ているようにごまかしてあるんです」
 刑事たちが踏み込んで調べてみると、布団を人の寝ているような形にふくらまし、頭のところには丸めた座布団を入れて、それに手拭をかぶせてあった。綾子の持ち物は何一と品残っていない。
 さっそく係りの女中を呼んで訊ねてみると、この部屋の客はゆうべおそく、少し加減が悪いので、朝寝坊をするから、昼頃まで起こさないようにと女中に言いつけたことがわかった。
「でも、あんまりお眼ざめにならないので、さっきから二度ばかり、襖を細目にあけて覗いてみたのですげれど、向こうをむいてよくおよっていらっしゃるようでしたので、そのままにしておいたのです。まさかこんな細工がしてあるとは気がつかなかったものですから」
 女中はきまりわるそうに弁解するのであった。
 玄関の履き物を調べさせてみると、綾子のはいてきた草履が、いつの間にか無くなっていることがわかった。
 結局、綾子は、ゆうべおそくか、けさあけがたに、宿の者の眼を盗んで、草履を持ち出し、裏口からでも立ち去ったものとしか考えられなかった。
 三島刑事は、最後の土壇場で、まんまと裏をかかれた口惜しさに、やっきとなって付近を調べまわったが、綾子らしい姿を見かけた者は一人もなかった。
 足跡もなければ、遺留品もなく、付近の人にも見られていないとあっては、捜査の手段も尽きたのであるが、なお念のために品川駅の改札係などに、綾子の風体を告げて、その朝の列車に乗り込まなかったかと訊ねまわってみたが、誰一人そういう娘を記憶にとどめているものはなかった。
 かくして、伊志田綾子は、巧みにもこの世から姿を消してしまったのである。警視庁は、東京全市はもちろん、東海道沿線の各駅の警察署に、綾子逮捕の手配をしたことはいうまでもないが、二日たち三日たっても、どこからも吉報はもたらされなかった。信じがたいことであるが、二十歳の小娘は、どんな大犯罪者も及ばぬ恐ろしい智恵を持っているように見えた。警察を出し抜き、名探偵明智小五郎を病院のベッドに呻吟せしめ、まんまと三重の殺人を犯して、ついに気体の如く消え失せてしまったのである。
 綾子の美貌はあらゆる新間に写真版として掲げられ、この美しい娘がと、全読者を仰天させ、戦慄させたが、世間の騒ぎもさることながら、当の伊志田家の人々の悲歎と焦慮とは、その極点に達し、あの陰々たる赤煉瓦の建物の内部は、今やこの世ながらの地獄であった。狂気の世界であった。
 さすがに強情我慢な主人の伊志田氏も、妻を失い、子を失い、しかもそれらの殺人の下手人が綾子であったと聞かされ、確証を見せつけられ、その綾子は今どことも知れぬ他国の空に、ジリジリと狭まってくる警察の網の中に、ただ一人身を悶えているのかと思うと、何をどう考えていいのだか、物思う力も尽きはて、ただ茫然と、狂気の一歩手前に踏みとどまっているばかりであった。
 七十八歳の祖母は今やまったく狂人であった。彼女は何を思ったのか、古い白無垢の着物を着て、昼も夜も仏間に坐りつづけていた。
 仏壇の扉を左右にあけ放ち、なん本となくロウソクを立てつらねて、一心不乱に経文を読誦しながら、絶え間なく伏せ鉦を叩きつづけ、誰が言葉をかけても、憑きものがしたように振り向きもしなかった。
 一郎青年は、一郎青年で、負傷がやっとなおったかと思うと、麻酔薬に倒れて、一夜を物置きにすごした疲労から、ほとんど放心状態で、昼もベッドに横たわっていた。
 だが、伊志田一家の不幸はそれで終ったわけではない。綾子が尾張屋を抜け出したことが確かめられてから三日目の夜、又しても恐ろしい呪いの影が、取り残された三人の上におそいかかってきた。
 その夜八時頃、伊志田氏の書斎の卓上電話のベルがけたたましく鳴り響いた。居合わせた伊志田氏が受話器を取ると、突然、妙にしゃがれた笑い声が聞こえてきた。
「伊志田さん、お前さんが今どんな気持でいるか、おれにはよくわかるよ。ハハハハハ、おれは愉快でたまらないんだ。もう少しでおれの目的がすっかり果たせるのだからね。というのはね、つまりおれの仕事は──お前さんの不幸はまだ終っていないという意味だよ。ハハハハハ、想像がつくかね。おれのほんとうの相手はお前さんなんだよ。これまでの仕事は、いわばその前奏曲みたいなものさ。ハハハハハ、せいぜい用心するがいいぜ」
 切れぎれにそんな意味のことを言って、声が途絶えてしまった。ひどくしゃがれた声で、男とも、女とも、老人とも、青年とも、見当がつかなかった。
 伊志田氏はそれを聞くと、ほんとうに気が違いそうになった。殺人犯人から電話がかかってきたのだ。しかも、その犯人というのは娘の綾子としか思われないのだ。ああ、なんということだ。たとえあの娘に地獄の悪鬼が憑いているにしても、正気を失って、悪鬼の命ずるままに行動しているにしても、こんな恐ろしいことが世にあり得るのであろうか。伊志田氏は、自分の頭がどうかして、ほんとうの声ではなくて、幻聴におびやかされているのだとしか考えられなかった。
 だが、それが幻聴でなかった証拠には、その同じ夜、伊志田氏は悪魔の声の主を見たのである。例の影のような黒覆面の人物をまざまざと見たのである。
 九時半ごろであった。伊志田氏は就寝前に入浴する慣わしだったので、その夜も湯殿のタイルの浴槽に浸っていた。充分洗い清めたとはいえ、亡妻の血を流したあの浴槽である。別に湯殿を造るつもりではあったが、重なる不祥事のために、まだその暇がなかったのだ。
 廊下には書生が見張り番を勤めていた。窓のそとの庭も、ほかの書生が巡廻をおこたらなかった。
 伊志田氏は浴槽に浸って、ガラス窓のそとの闇を見つめていた。今しがた書生の姿が、その前を歩いていったばかりだ。怪しい者がいるはずはない。だが、そう信じながらも、おびえた眼を闇に向けないではいられなかった。
 すると、いま立ち去ったばかりの書生の黒い影が、窓のそとへ戻ってくるのが見えた。どうしたのかと眺めていると、その黒い影は必要以上に窓に接近してきた。接近するにつれて、浴室の電燈の光で、そのものの姿がだんだんハッキリした。
「おやつ、あいつ、気でも違ったのじゃないか」
 伊志田氏は吹き出したくなった。どういうわけか腹の底から、おかしさがこみ上げてきた。
 書生はインバネスのようなものを羽織って、黒い布で頭を包んでいた。そして、その布の中から眼だけを出して、じっとこっちを見つめながら近づいてきた。
 伊志田氏の顔から笑いの影が消えて行った。そして、なんとも言いようのない恐怖の色が浮かんだ。
 覆面の人物は鼻の頭がガラスに着くほど、窓のそとに接近していた。黒布をくり抜いた二つの穴から、誰かの眼が、瞬きもせず伊志田氏を睨みつけていた。
 さきほど電話をかけたやつが姿を現わしたのだ。では、このガラス窓にくっついているまっ黒な怪物が、あの「綾子」なのであろうか。伊志田氏がとっさにそれを考えたことはいうまでもない。
 父は浴槽に首だけを出し、娘は覆面に顔を包んでガラスのそとから父を覗いている。この気違いめいた、怪談めいた事実が、伊志田氏を極度に惑乱させた。
 恐ろしいけれど、叫んでいいのかどうかわからない。書生が来て怪物を捕えてくれることが望ましいようにも思われ、絶対にそんなことがあってはならないようにも思われた。
 だが、ガラスのそとにいるやつは、人情を解しないのだ。何か途方もないものに憑かれているのだ。だまっていたら、いきなりピストルを発射するかもしれない。
「そこにいるのは、綾子じゃないのか!」
 伊志田氏は、熱病にうなされているような声で、気違いめいたことを叫んだ。
 相手はだまっていた。ただ黒布の穴の両眼が異様に光っているばかりであった。
 たっぷり一分間ほど、異様な睨み合いがつづいた。覆面の人物の気持は推察の限りではないが、伊志田氏の方は、その一分間に、四、五日分の思考力を一気に使い尽したような感じで、たちまちゲッソリと痩せ衰えるほどの疲労を覚えた。
 伊志田氏は湯の中に浸ったまま、身動きもできないでいたが、いよいよ思い切って、浴槽から飛び出そうと考えた。だが、彼が、それを実行する前に、窓のそとの怪物が、突然妙な声で笑い出した。内証話のようなかすれ声で、嘲けるがごとく、憐れむがごとく、ともすれば泣いているのではないかと思われるような不思議な声で、笑いつづけた。
 伊志田氏は、怪物がたとえわが娘にもせよ、この人でなしの笑い声の恐ろしきに、慄え上がった。彼は、いきなり大声に救いを求めながら、浴槽から飛び上がり、裸体のまま、廊下の方へ走り出さないではいられなかった。
 たちまち書生たちが駆けつけてきた。庭にも書生の叫ぶ声が聞こえた。そして騒がしい怪物追跡がはじまったが、覆面の人物は、いつの間に、どこをどうして逃け去ったのか、庭じゅうを探しまわっても、ついにその姿を発見することができなかった。
 伊志田家の娘としての綾子は、行方をくらましてしまった。そして、再び帰ってきた時には、まったく悪魔と化身していた。いまわしい覆面の怪物として、邸内をさまよった。
 彼女はなぜ家出したのか。それは一切の人界の絆を断ち切って、悪魔になりきってしまうためではなかったか。そういう考えが、伊志田氏は元より、一郎青年を恐怖と悲歎のどん底におとしいれた。
 翌朝、このことが警視庁に報ぜられたのはいうまでもない。そして、北森捜査課長の計らいで、伊志田家の警戒はさらに一そう強化されたが、黒い怪物は、物質界の法則を無視するかのごとく、思いもよらぬ時、思いもよらぬ場所へ、その無気味な姿を現わした。
 ある時は、着更えをするために、洋服の戸棚をひらくと、かけ並べた洋服にまじって黒い釣鐘インバネスが下がっていた。よく見ると、それには黒い頭部があり、くり抜いた二つの限が光っていた。そして、あの内証話のような笑い声を立てた。
 しかし、伊志田氏はその怪物を捉えることができなかった。
 黒いやつはピストルをつきつけて、老人のような笑い声を立てながら、立ちすくむ伊志田氏を尻目に、悠々と部屋のそとへ姿を消してしまった。そして、書生たちが現場に駆けつけたころには、例によって、怪物は蒸発したかのごとく影も形も見せないのであった。
 ある夜ふけ、伊志田氏が何か妙な物音に、ふと眼を覚ますと、寝ているベッドの下から、黒い影のようなものが、スーッと這い出してきて、覆面の頭をこちらに向けて、嘲けるような笑い声を立てた。
 またある時は、伊志田氏の書斎の入口の、ドアの上の通風窓に、黒い人影が猿のようによじのぼって、そこからじっと部屋の中を見おろしていた。
 一郎青年はたまらなくなって、ある日、病院の明智小五郎に電話をかけた。
「先生、助けてください。僕はもうどうしていいかわからなくなりました」
 彼は電話口で悲鳴を上げた。その声には何かしら狂気の前兆のようなものが感じられた。
「あいつがまた戻ってきたんだろう」
 明智の静かな声が聞こえた。傷もほとんど癒えて、もう電話をかけられるようになっていたのだ。
「そうです。先生もお聞きになったのですか」
「ウン、北森君が知らせてくれた。だが、知らせてくれなくても、僕にはわかっていたのだよ。なぜといって、あいつは僕の所へも電話をかけてきたんだからね」
「えっ、先生に電話を?」
「ウン、例の老人とも、若者とも判断のつかない変な声でね。いよいよ悪魔の事業の最後の段階にはいったのだと知らせてきたよ」
「最後の段階ですって? それは……」
「それは多分、一家の中心である君のお父さんと、それから君自身への危害を意味するのだろうと思う」
「そうです。そうに違いないのです。先生、助けてください。あなたはいつ退院なさるのですか」
「あさってあたりお許しが出そうだよ。そうすれば、すぐ君のところへ行って上げる」
「あさってですって。そんなに待てるでしょうか。僕はなんだか、あしたまでも生きていられないような気がします」
「充分用心していたまえ。きょうとあすと二日間、君が自分で身を守りさえすれば、その次の日には、僕が必ず犯人を捕えてみせる。君に約束しておいてもいい、今度こそ間違いないよ」
 明智が子供らしいことを言った。日頃の彼の調子ではない。一体なにを考えているのであろう。
「それはどういう意味でしょうか。なにかお考えがあるのですか」
「ウン、少し考えていることがあるんだよ」
「しかし、先生、僕は犯人が捕えられることを喜んでいいんだか、悲しんでいいんだかわからないのです。犯人が誰だかということは、もう間違いないのですからね」
「君はそれを少しも疑わないのかい。確信しているのかい」
「ええ、できるなら信じたくないのですけれど、こんなに不利な証拠が揃っちゃ、もう疑うわけにはいかなくなりました」
 一郎は悲しげに溜め息をついた。
「しかし、僕はまだ信じてやしないんだよ。そんなことは人間の世界には起こり得ないと思うんだ。神が許さないと思うんだ。どこかに非常な錯誤がある。僕は必ずその錯誤を発見してみせるつもりだよ。ああ、早く病院を出たいもんだなあ」
「先生、それを聞いて僕はなんだか、少し明かるくなったような気がします。でも、あさってというのは待ち遠しいですね。僕たちはそれまで無事でいられるでしょうか」
「多分大丈夫だろうと思うよ。なぜといって、今度は、あいつはただ姿を見せるだけで、少しも危害を加えようとしないじゃないか。あいつはしばらくのあいだ、君たちの恐怖を楽しむつもりなんだよ」
「そういえば、そうですね。しかし、いつ気が変らないとも限りませんし……」
「だから、充分用心するんだ。書生たちのほかに、警視庁からも人が行っているんだろう」
「ええ、それは、物々しすぎるくらいです」
「じゃ、君たちはいつもその人たちをそばへおくようにするんだ。お父さんにしろ、君にしろ、一分間も一人きりにならないようにするんだ。なあに心配することはないよ。僕の考えが間違っていなければ、きょうあすのうちには、何事も起こらないはずだ。僕が請合って上げてもいい」
 明智は何か頼むところあるもののごとく、きっぱりと言いきるのであった。
 この電話による奇妙な会話は、冷静な第三者には、なんとなく腑に落ちぬところがあった。この重大な事柄を電話で話し合う一郎も非常識であったが、それに応じて、退院の日取りだとかそのほか大切なことを、軽々しく口にするというのは、日頃の明智に似ぬ軽卒な態度であった。
 だが、名探偵の言動にはいつも裏がある。この一見軽卒に感じられる会話にも、何か深い裏の意味がこもっていたのではなかろうか。



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posted by じん at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸川乱歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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