2016年07月04日

江戸川乱歩「暗黒星」書起。「第十八回 闇を這うもの」を掲載

『江戸川乱歩 作品集』に収録した「暗黒星」の第十七回目をお届けいたします。
刑事が廊下で見つけた怪しい影の正体とは……


   暗黒星 第十八回 闇を這うもの

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 北森課長はそれを聞いてなんとなく脈に落ちぬような感じがした。あれほど手を尽した捜索の網に、一度もかからなかった魔法使いのような曲者が、こんなにやすやすと捕えられるというのは、ほとんど信じがたいことであった。
 しかし、いくら信じがたいにせよ、稀代の殺人鬼が、刑事たちの包囲を受けているとあっては、捨てておくわけにはいかぬ。北森氏は直ちに一郎の部屋を出て現場にかけつけた。
 あとに一人取り残された一郎青年は、その騒ぎを少しも知らないで、鼾の音さえ立てながら、熟睡していた。いくら疲労していたとはいえ、この無神経な熟睡はなんとなくただごとではなかった。これには何かわけがあるのではないだろうか。悪魔は又しても、一郎青年の上に人知れぬ陰謀をめぐらしているのではあるまいか。
 それはともかく、北森捜査課長が、刑事の案内で現場にかけつけてみると、一郎の祖母の部屋に近い廊下に、まっ黒な怪物が、三人の刑事に追いつめられて立ちすくんでいるのが見えた。
 刑事たちはジリジリと怪物の方へつめよっていた。曲者はもう逃げ場もなく、廊下の壁に、ピッタリと身をつけて、ただじっとしているばかりであった。
 北森氏と刑事とが加わったので、こちらは総勢五人となった。いかな怪物もいよいよ運のつきである。刑事たちが相手に組みつくことをためらっていたのは、飛び道具を恐れていたからであったが、曲者はなぜかピストルを取り出す様子も見えなかった。
「諸君、なにを、ぐずぐずしているんだ。早く組み伏せたまえ」
 北森課長はみずから曲者に飛びかかりかねぬ勢いで、叱りつけるように叫んだ。その声に勇気づけられた刑事たちは、もうためらってはいられなかった。口々に何か叫びながら、怪物めがけて突進して行った。
 だが、それよりも、曲者の動作はさらに敏捷であった。何か恐ろしい物音がしたかと思うと、黒い怪物の姿は、アッと言う間に、刑事たちの鼻の先から消え失せていた。
 ちょうど曲者の立ちすくんでいたうしろの板壁に、物置きの押入れのひらき戸があった。彼はとっさに、その板戸をひらいて、サッと押入れの中に身を隠し、ピッシャリと戸を閉めてしまったのだ。
 刑事たちは相手の考えを理解することができなかった。自分で押入れの中へはいりこむなんて、少しも逃げ出す意味にはならない。逆に捕縛を容易にするようなものではないか。さすがの怪物も血迷ったのであろうか。だが、相手の考えがどうあろうと、今はただ、その袋の鼠を捕えさえすればよいのだ。
 先に立った刑事は、すぐさまその板戸に手をかけてひらこうとしたが、曲者は中からしんばり棒でもかったのか、ゴトゴトいうばかりで、なかなかひらかない。
「構わない、その戸をぶち破りたまえ」
 課長の指図に、刑事は勢いこめてからだごと板戸にぶつかって行った。二度繰り返すまでもなく、バリバリと恐ろしい音を立てて、板戸は押入れの中へ倒れ込んだ。
「おや、どうしたんだ。誰もいないぜ」
 そのあとから押入れの中へ首を突っ込んだ刑事が頓狂な声を立てた。
 刑事たちはつぎつぎとその中を覗きこんだが、皆あっけにとられたように無言で顔を見合わすばかりであった。
 押入れの中には、いろいろな道具類が置いてあったが、人間一人隠れるほど大きなものは何もなかった。それにもかかわらず、今逃げこんだばかりの曲者の姿は、まるで溶けてでもしまったように、影も形も見えないのだ。
「変だなあ。いったいどうしたっていうんだろう」
 何かゾッとしたように、一人の刑事がつぶやいた。
 怪物は又しでも得意の魔法によって人々の眼をくらましたのであろうか。だが、今の世に怪談は許されない。いくら怪物でも物理学の法則を破ることはできない。これには何かカラクリがあるのだ。ひょっとしたら、この押入れの中に秘密の抜け道でもあるのではないだろうか。なにしろ奇人の建てた古い建物だから、そういうものもないとはいえぬ。
 北森課長はふとそこへ気づいたので、みずから押入れの中へはいって、壁や床板をあちこちと調べてみたが、間もなく薄笑いを浮かべながらそとに出てきた。
「やっぱりそうだ。抜け穴があるんだよ。誰か懐中電燈を持ってきたまえ。どこへ通じる抜け穴かわからないが、ともかく、調べてみなくちゃ」
 やがて刑事の持ってきた懐中電燈を受け取ると、「三島君、君も一緒にきたまえ」と言いながら、課長は先に立って、押入れの中へはいった。
 その中は三方とも板壁になっているのだが、一方の隅に高さ三尺ほどの小さな隠し戸がついていて、それが向こう側へひらいている。その奥は深さも知れぬ闇だ。おそらくここは地下道の入口なのであろう。
「やっこさん、よっぽどあわてたとみえて、隠し戸の締まりを忘れて行ったのだよ。ちょっと手で押してみると、なんの造作もなくひらいたのだ。
 君、用心したまえ、相手は気ちがいだからね。僕は幸いピストルを持ち合わせているから、いざといえばひけは取らないつもりだが、君は空手なんだからね。僕のうしろからついてきたまえ」
 北森氏は懐中電燈をうしろの三島刑事に持たせ、自分はピストルを握って、大胆にも闇の地下道へと這いこんで行った。
 懐中電燈で照らしてみると、上下左右とも石で畳んだ細い地下道で、余ほど年代のたったものとみえ、石畳はところどころくずれているし、一面に徽とも苔ともつかぬものが生え、なんともいえぬしめっぽい土の匂いが鼻をつく。
 北森氏の想像にたがわず、これは最初この建物を建てた西洋人が、物好きからか、或いは何かの秘密の用途のためにか、こしらえておいた地下道に違いない。それを犯人が発見して、隠れ場所に使用しているのだ。覆面の怪物はこの邸内をまるでわが家のように、自由自在に歩きまわり、しかも、幾度追いつめられでも、かき消すように姿をくらましていたのだが、こんな抜け穴があるのでは、なんの不思議もないことであった。あの神変不可思議の魔法の種はここにあったのだ。
 北森氏はその冷たい石の上を這いながら、ふと、今自分は誰を追っているのかということを考えた。そしてなんとも言えぬ変な気持になった。これまでの情況証拠はすべて伊志田綾子を指していた。伊志田家の家族の一員であるあの美しい娘さんが、恐るべき殺人犯人に目されていた。すると、この冷たい暗い地下道の中を、四つん這いになって逃げて行く覆面の怪物は、やはりその美しい綾子でなければならない。ああ、そんなことがあり得るのだろうか。
 用心に用心をしながら這い進んで行くと、ふと、懐中電燈の淡い光が、一間ほど向こうにうごめいている黒いものの姿を照らし出した。怪物のマントであった。足を隠すほど長いインバネスの裾が、石畳の上をすって、ズンズン向こうへ這って行く。
「待てっ!」
 声をかけても、ひるむ様子はなかった。ここまでお出でといわぬばかりに、速度を早めて遠ざかって行く。
 その黒い怪物が、かよわい、二十歳の娘なのかと考えると、現実家の北森氏も三島刑事も、地底の冷たい風が運んでくる一種異様の鬼気に、慄然としないではいられなかった。



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posted by じん at 23:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸川乱歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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