2016年07月19日

江戸川乱歩「暗黒星」書起。「第二〇回 狂人の幻想」を掲載

江戸川乱歩 作品集』に収録した「暗黒星」の第二〇回目をお届けいたします。最後犯罪は綾子と伊志田氏の磔刑だった。犯人は一体誰なのだろうか。


   暗黒星 第二〇回 狂人の幻想



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 そこに磔刑になっていたのは、男ではなくて、洋装をした若い女であった。猿ぐつわをはめられ、両手両足を鉄の鎖で縛られ、乱髪の頭を垂れて、死人のようにグッタリとなっていた。
 人々はアッと声を立てて、その女の前に駆け寄り、電燈の光を顔に当てた。
「やっぱりそうだ。これは綾子さんだ。綾子さんは最初からここに監禁されていたんだ」
 明智は当たり前のことのようにつぶやいたが、北森氏と三島刑事は驚きを隠すことができなかった。
 殊に三島刑事は、逃亡した綾子の跡を追って、あの品川駅前の旅人宿に踏み込んだ当人なのだから、そのまま行方不明になったと信じきっていた綾子が、伊志田邸の穴蔵の中に磔刑になっていようなどとは、思いもよらぬことであった。
 綾子は犯人ではなかったのだ。犯人どころか被害者の一人であったのだ。
 人々は今の今まで、この綾子こそ、伊志田家殺人事件の真犯人に違いないと思い込んでいた。
 あらゆる事情が彼女を指さしていたばかりか、彼女が家出をして、いかにも犯罪者らしい方法で行方をくらましてしまったことが、その有罪を確証しているかのように見えた。ところが、家出をしたとばかり思い込んでいた綾子が、ここに監禁され、奇怪な磔刑に処せられていたのである。
 人々はまた大急ぎで綾子を磔刑から助けおろさねばならなかった。彼女は父の伊志田氏より一そう憔悴していた。もし彼女が家出をしたと信じられている日から、ここに監禁されていたとすれば、一週間の日数がたっているのだから、この疲労はもっともの事であった。
 いろいろ訊ねたいのだけれど、とても答える力はないので、何よりも先ず二人を介抱しなければならなかった。三島刑事が北森課長の旨を受けて、二人をそとへ運び出す手伝いを呼ぶために、急いで地下道を引っ返して行った。
「それにしても、犯人はこんなまねをして、一体どうするつもりだったのかな。飢え死にするのを待つというのは少し気の永い話だが」
 北森氏は、なんとなく腑に落ちぬ様子でつぶやいた。
「いや、犯人は飢え死によりも、もっと恐ろしいことを考えていたのです。ごらんなさい、これです」
 明智は穴蔵の隅へ歩いて行って、壁の隅を照らしてみせた。そこには直径一寸以上もある瓦斯管のような太い鉛の管が、穴蔵の天井を伝って、床の近くまで、鼠色の蛇のように這い降りていた。
「おやっ、鉛管ですね。それじゃそこから瓦斯を送るつもりだったのだね」
 北森氏がいよいよ驚きを深くして叫んだ。
「いや、瓦斯よりももっと恐ろしいものです」
「えっ、瓦斯よりも恐ろしい?」「僕は負傷する前に、この穴蔵を発見して、よく調べておいたのですが、この鉛管はその時からここに取りつけであったのです。昔からこんなものがあったわけではありません。犯人が、わざわざとりつけたのです。ごらんなさい。この鉛管はまだ新らしく、ピカピカ光っています。僕も最初は殺人の瓦斯を送る仕掛けではないかと疑いましたが、調べてみると、この鉛管の向こう端は瓦斯管につながっているのではなくて、この家の庭にある撒水用の水道管につながっていることがわかりました。その水道管は真夏のほかは使用しないもので、雑草に蔽われて、ちょっと誰も気のつかないような場所にあるのです」
「フーン、すると水責めにしようと考えたのですか」
「そうです。瓦斯よりも一そう残酷な方法です。この穴蔵に流れこむ水が、一寸ずつ一寸ずつ水面を高くしてくるのです。足から腰、腰から胸へと、徐々に水が増して、刻々に死期の近づくのを、眼の前に眺めながら、どうすることもできないのです。何が恐ろしいといって、刻一刻、時計のように正確に、まったく逃がれるすべのない死が近づいてくるのを、じっと見ていなければならないほど恐ろしいことが、この世にあるでしょうか。犯人はこの二人に、その恐怖を味わせようとしたのです。
 いや、そればかりではありません。犯人はもっと恐ろしいことを考えていたのです。北森さん、あなたはそれに気がつきましたか。綾子さんの縛られていた位置は、床に足が着くほど低いのに比べて、伊志田さんの縛られていたのは、それより二尺も高い位置です。これは偶然でしょうか。もし偶然でなければ何を意味するのでしょう。
 僕はたった今、そこへ気がついて、犯人の着想の恐ろしきにゾーッとしたのですよ」
 捜査課長は、明智の言葉の意味を悟りかねて、いぶかしげに相手の顔を見つめた。明智は無残な推理をつづける。
「これはつまり、二人の被害者の絶命する時間を、同時でなくするために違いないのです。伊志田さんの方が、水面が二尺高まるあいだだけ、あとで絶命するように、高い場所に縛りつけておいたのです」
「フーン、そうか。恐ろしいことを考えついたものですね。つまり、娘の苦しむ有様を父親に見せつけようというわけですね」
 北森氏はやっとそこへ気づいて、深い溜め息をもらした。
「そうです。父親は可愛い娘がもだえ苦しんで、まったく息が絶えてしまうまで、じっと見ていなければならないのです。そして、その生々しい印象を刻みつけられたまま、自分もやがて、同じ苦悶をくりかえして、絶命しなければならないのです。
 狂人の幻想です。真の悪魔でなくては考え出せない陰謀です。これまでの殺人事件は、すべてこの最後の段階に達する予備行為にすぎなかったのです。一人々々家族をなきものにして、苦痛の限りを味わわせた上、最後には、もっとも愛する娘の惨死を眺め、その上自分も同じ死に方をしなければならないということを、水面が二尺高まるあいだ、繰り返し繰り返し考えさせようというのです。なんという執念でしょう。これがまともな人間の智恵で考え出せることでしょうか」
「では、あなたは、この犯罪の動機は復讐だというのですか」
「そうです。そのことはあとでゆっくりお話しします、何もかも。しかし、今はまずこの二人をそとに運び出さなければなりません」
 やがて、三島刑事を先頭に、三人の刑事が穴蔵にはいってきた。そして、北森課長と明智の指図にしたがって、伊志田氏と綾子さんを、地底から運び出し、階下の来客用の寝室にベッドを二つ並べて、一と先ずそこへ休ませ、飲み物を与えて介抱をしたのであるが、明智はそのさ中に、何を思ったのか、あわただしく伊志田氏の老母の部屋をおとずれていた。
 ドアをひらくと、襖の向こうの日本間から、陰気な読経の声が聞こえてきた。この数日来、老人は仏壇の前に坐りつづけて、狂気のように念仏を唱えているのだ。明智は控えの間を通り抜けで、襖のそとに立ち、しばらく様子を窺っていたが、やがて、ソッと襖をひらいて、部屋の中を覗きこんだ。
 そこには立派な金ピカの仏壇が安置され、あけ放った扉の前には、妙な形のロウソク立てになん十本という小ロウソクが、チロチロと赤い焰をゆるがしていた。
 老人は祈禱者かなんぞのような白衣を着て、仏壇に向かって端坐し、珠数をつまぐりながら、歯のない口を無気味に動かして、襖のひらいたのも知らぬげに、一心不乱に経文を読誦していた。
 なでつけにした銀髪が、長く手入れもしないのか、モジャモジャと乱れて、青ざめた皺くちゃの顔の中に、目がねの中の落ちくぽんだ両眼だけが、異様にするどく、気違いめいた光を放っていた。
 この八十歳にも近い老人は、何をかくまで熱心に祈っているのであろう。うちつづく不幸に心も乱れて、せめては残る家族の無事を念じて、このように一心不乱になっているのであろうが、その部屋の異様に陰気な気違いめいた雰囲気は、ともすれば、その逆に、何かしら無気味な呪いとでもいうようなものを連想せしめた。
 明智はその様子を、細目にひらいた襖の隙から、ソッと覗いていたが、老人がさいぜんからの騒ぎに少しも気づいていないらしいことを確かめると、別に言葉をかけるでもなく、そのまま又音のせぬように襖を閉めて、廊下に出た。そして、廊下の向こうを通りかかった書生を手招きして、その耳に妙なことをささやいたのである。
「君、このドアの前でね、ご老人の見張りをしていてくれたまえ。少しのあいだ、地下室の出来事をご老人に知らせたくないのだ。もし部屋を出られるようなことがあったら、あとをつけて、あちらの僕たちのいる部屋へこられないように計らってくれたまえ。そして、もし何か変ったことがあったら、すぐ僕に知らせるんだ。わかったかね」
 書生が領くのを見て、明智はそこを立ち去ったが、次には、廊下の別の端にある一郎青年の寝室に急いで、ソッとドアをひらき、部屋の中を覗きこんだ。
 見ると、一郎はベッドの上に、軽い鼾を立てて熟睡していた。永い時間、古井戸の底に水びたしになっていた疲労のためとはいえ、昼日中この熟睡は、なんとなくただごとでないように思われたが、明智は別に怪しむ様子もなく、彼が何も知らないで眠っているのを確かめると、そのままドアを閉めて、伊志田氏と、綾子さんの運ばれた部屋へ引き返した。



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posted by じん at 23:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸川乱歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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