2016年07月20日

江戸川乱歩「暗黒星」書起。「第二一回 誰が犯人か」を掲載

江戸川乱歩 作品集』に収録した「暗黒星」の第二一回目をお届けいたします。明智探偵が犯人に仕掛けた罠とは。


   暗黒星 第二一回 誰が犯人か


 
 一室にベッドを並べて横たわっていた伊志田氏と綾子さんは、それから一時間ほどのちには、いくらか元気を取り戻して、少しずつ人々の問いに答えられるようになっていた。
 北森課長と明智とは、二人の枕元に腰かけて、からだにさわらぬ程度に、要点だけを質問して行った。
 その結果判明したところによると、先ず綾子さんの方は、あの怪青年荒川庄太郎変死事件のあった目、すなわち綾子さんが家出をしたと信じられている日以来、例の覆面の怪物のために、あの地下室に押しこめられ、きのうまではただ手足を縛られ、猿ぐつわをはめられて、逃亡の自由を奪われていたばかりであったが、ゆうべ、伊志田氏が同じ穴蔵へ連れ込まれると同時に、あの恐ろしい磔刑の姿で、壁に縛りつけられたというのである。
 一週間の監禁中、ゆうべまでは、一日に二度ぐらいずつ、覆面の怪物自身で、パンと飲み物を運んでくれ、その都度、猿ぐつわをはずして手の縄をといてくれたので、飢渇に耐えぬというほどではなかった。それよりも、一体この先どんな恐ろしい自に遭わされるのかと思うと、食事どころではなく、まったく生きた空はなかったという。
 父の伊志田氏の方は、ゆうべ、まったく知らぬまに、地下室へつれこまれ、ふと気がつくと、いつの間にか磔刑の形で壁に縛られていた。おそらく犯人が何かの飲み物の中に麻酔薬を混ぜておいたものであろう。そしてその昏睡中の伊志田氏を地下室に担ぎ込み、目醒めぬあいだに、壁に縛りつけてしまったものに違いない。
 彼は仕合わせにも、まだ水責めの陰謀には気づいていなかったので、それほどの恐怖は感じなかったが、しかし、眼の前に娘の綾子が、同じように縛られているのを見ながら、助けてやることも、声をかけることさえできない苦しさを、目醒めてから今まで、七、八時間も味わわされたのであった。
「一郎はどうしているのでしょう。あれもどうかされたのじゃありませんか。なぜここへきてくれないのでしょう」
 伊志田氏は一と通り問答がすんだあとで、キョロキョロとあたりを見まわしながら、気遣わしげに訊ねた。
「いや、一郎君には別状ありません。御安心ください。ちょっと僕が行って呼んできましょう」
 明智はなにげなく答えて立ち上がると、そのまま部屋を出て、一郎の寝室へ急いだ。
 一郎の部屋の前には、三島刑事が腕組みをして立っていたが、明智を見ると、腑に落ちぬ様子で声をかけた。
「まだ寝つづけているんですよ。どうしたんでしょう。いくら疲れているといっても、少し変じゃありませんか」
「いや、心配したことはないでしょう。僕が起こしてやりますよ」
 明智は気軽に言って、部屋にはいり、ベッドに近づくと、いきなり一郎を揺り起こした。
「一郎君、起きたまえ。僕だよ。僕だよ」
 幾度も同じことを繰り返しているうちに、一郎はやっと眼を醒まして、ボンヤリした顔でキョロキョロとあたりを見まわしていたが、明智の顔を意識すると、びっくりしたように、ベッドの上に起きなおった。
「おやっ、明智先生じゃありませんか。いついらっしたのです。僕すっかり寝すごしちゃって、失礼しました。きょうは幾日なんだろう。変だな。僕、先生は病院にいらっしゃるとばかり思っていたのですよ。退院はあすじゃなかったのですか」
「一日繰り上げて、けさ退院させてもらったのだよ。君のことが気になったものだからね」
「えっ、僕のことが?」
「君は井戸へほうりこまれていたっていうじゃないか。僕が病院に寝ているあいだに、いろいろなことが起こったね。でも、怪我がなくてよかった。起きられるかい。実は君を喜ばせることがあるんだよ」
「ええ、起きられます。でも、僕を喜ばせることって?」
 一郎は疲労のために青ざめた顔に、強いて微笑を浮かべながら聞き返した。
「お父さんがご無事だったのだよ」
「えっ、父が?」
「そればかりじゃない。綾子さんも見つかったんだ」
「えっ、姉さんも?」
 一郎はいきなりベッドを飛び降りて、ドアの方へ駆り出しながら、
「どこです。どこにいるんです。早く会わせてください」
 と狂気のように叫ぶのであった。
「そんなにあわてることはない。二人ともあちらの部屋のベッドにいるんだよ。しかし、非常に疲労しているから、あまり騒ぎ立ててはいけない。お父さんたちの無事な姿を一と眼見たら、またこの部屋に帰って、今後の捜査についてよく相談することにしよう。さあ、僕と一緒にきたまえ」
 一郎は明智に助けられて、よろめきながら、父と綾子の横たわっている部屋にたどりついた。彼もまだ普通のからだではなく、それだけ歩くのにも、はッハッと息を切らしていた。
 父と子と姉と弟とは、手を取り合わんばかりにして、互いの無事を喜び合った。だが一郎はほんの二、三分しかその部屋にとどまることができなかった。伊志田氏はそれほどでもなかったが、綾子が非常に疲労して神経過敏になっているので、激情的な会話をつづけることは差し控えなければならなかった。明智は無理に一郎を引き離すようにして、再び彼の寝室へ連れ戻った。
 それから一郎に飲み物などを与えて、激情が静まるのを待って、北森捜査課長と明智と三島刑事とが、一郎青年の部屋に落ち合い、ゆうべの出来事について、ゆっくり互いの意見を交換することになった。

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 一郎はベッドに腰かけ、小卓を隔てて北森氏と明智とが椅子に着き、三島刑事は同僚と共にそのうしろにたたずんでいた。
 先ず明智の口から、地下室発見の次第、伊志田氏と綾子さんを助け出した顚末を、かいつまんで物語ったが、一郎青年は聞くごとに顔色を変えて、悪魔の残虐を呪った。
「それにしても、なんという恐ろしい犯罪事件でしょう。僕たち一家のものが、最後の一人まで害を受けていながら、しかも犯人が何者だか少しも見当がつかないなんて」
 彼は皮肉まじりに、やり場のない忿懣を漏らすのであった。
「この事件には常識がないのだ。狂人の執念なんだ。だから正面からぶつかったのでは、とてもあいつの尻尾を摑むことはできない。狂人のくせに、何から何まで考えに考え抜いて、少しの手落ちもなくやっているんだからね」
 明智は一郎と北森氏の顔を交互に見ながら、彼の意見を述べはじめた。
「例えば綾子さんを犯人に仕立て上げたやり口一つを見ても、あいつの気違いじみた頭の働き方がよくわかるのですよ。心理的にまったく不可能なことを、どうしてもそうと信じないではいられぬように、種々さまざまの証拠を作り上げて行くんですからね。常識はずれの、悪魔の知恵とでもいうのでしょうね。警察はもちろん、弟の一郎君までが、綾子さんを犯人だと思っていた。血を分けた姉弟にそういう考えを持たせるというのはよくよくのことですよ。のっぴきならぬ証拠が揃いすぎるほど揃っていたのです。そして最後にはあの奇妙な家出という大芝居を打ってみせたのですからね。
 しかし、僕は最初から、あの人を真犯人とは考えなかった。それは一つは、あのうら若い女性が実の弟を傷つけたり、実の妹を惨殺したりすることは非常に不自然だという、常識判断に基づくのですが、もう一つは、ちょっとしたごくつまらないことから、犯人のトリックを見破ったのです。それはね、あのヘリオトロープの匂いですよ。
 一郎君はよく覚えているだろう。僕が覆面の怪物を物置き部屋に追いつめて、ピストルで撃たれた時、非常に強いヘリオトロープの匂いがしたということを。その匂いが強すぎたんだよ。綾子さんが日頃ヘリオトロープを使っていることは誰でも知っているのだから、大切な犯行の際に、その特徴のある香水を、あんなに強く匂わせているというのは、犯人の心理に反するじゃないか。不思議なことに、最初君が傷つけられた時、カーテンの陰に隠れていた曲者を追いかけた折には、少しもヘリオトロープの匂いなんかしなかったのだ。その時には、犯人が匂いのことまで、まだ気をくばっていなかったのだよ。そして、あとになって、僕が綾子さんがヘリオトロープを使っていることを知るようになってから、さっそくあの匂いを利用して、誤まった判断におとしいれることを考えついたのだ」
「だが明智君、綾子さんが塔の三階で、怪しげな信号をしていたことは間違いないのでしょう。君の眼でその姿を見たのでしょう」
北森氏が急所を突くような言葉をはさんだ。
「そうです。あれは確かに綾子さんでした。はっきり顔を見たのです。そして、その時はじめて、あの人がヘリオトロープを使っていることを気づいたのですよ。
 あれは綾子さんに違いなかったのです。犯人はあの綾子さんの不思議な行為を知って、巧みにそれを手品の種に利用したのですよ。僕もこの眼で見たのだから、はじめのあいだは、綾子さんを疑わないわけにはいかなかった。しかし、僕が病院にいるあいだに突発した、あの荒川という青年の変死事件のお蔭で、僕は一つのまったく別な想像を組み立てることができたのです。
 伊志田さんにしろ、一郎君にしろ、どうしてそこへ気がつかなかったかと不思議に思うほどですよ。至極簡単な事柄です。恋愛なのです。綾子さんはあの職工の息子と秘かに恋におちいっていたのではないかと気づいたのです。
 そこで、僕は病院のベッドから指図をして、懇意な青年を死んだ荒川の友だちらしく装わせ、ついこの裏の荒川の家を訪問させたのですよ。そして、母親をうまくくどき落として、荒川の大切にしていた日記帳を手に入れたのです。
 その日記帳には、綾子さんとのひそかな恋愛の顚末が細々としたためてありました。なぜ母親がその日記の記事に気づかなかったかといいますとね。それは全文ローマ字で書いであったからですよ。
 塔の三階から荒川の家の窓が見えるのです。綾子さんは恋人と信号をかわしていたにすぎないのです。荒川の方でもやはり、懐中電燈でそれに答えていました。ただ恋の言葉を送り合う場合もあったでしょう。又、信号によって荒川を邸内に呼び寄せる場合もあったでしょう。荒川が変死をとげたのは、その後の方の場合だったのです。
 綾子さんが、なぜそんな不自由なまねをしていたか。それは相手がわるかったのです。相手が職工の息子で、しかも文学青年というのでは、頑固な伊志田さんが、許すはずはありません。二人は最初から親の許しを受けることは諦らめていたのです。それに、綾子さんにしては、物語にあるような古塔の上から、胸おどらせながら秘密の通信を取りかわすという冒険的な恋愛に、人知れぬ喜びを味わっていたことでしょう。
 ですから、荒川青年を撃ったのは、むろん綾子さんではありません。あの夜、小林が見たという塔の窓の白い人影も、綾子さんではなくて、犯人がそういう服装をして待ち構えていたのでしょう。荒川を信号でそこへ呼び寄せたのも、おそらく真犯人の仕業ですよ。
 犯人は一応綾子さんに嫌疑をかけることに成功したものの、いつ綾子さんが、ほんとのことをしゃべらないとも限らぬ、殺人犯人と疑われるよりは、いくら恥かしくても、恋愛を打ちあける方がましですからね。犯人はそれを恐れたのです。
 そこで綾子さんを家出させ、行方不明にしてしまうことを考えついた。しかし、綾子さんを隠してしまっても、相手の荒川が生きていては、あの青年の口から秘密がばれないとも限らないので、先ず、荒川をおびき寄せて殺害した上、綾子さんを地下室へ監禁しておいて、綾子さんの替玉を作り、変装用の古着を買わせたり、品川駅前の安宿に泊まらせたり、いろいろな証拠を残して、品川駅前から汽車に乗って遠くへ逃亡したように見せかけたのです。
 一方庭に残された荒川の死体は、この事件の怪奇性を一そう深める役にも立ったわけです。まったく見知らぬ男が夜のあいだに死体になって邸内に倒れているなんて、実に申し分のない煽情的な光景ですからね」
 明智はそこでちょっと言葉を切ると、北森氏は感に堪えたように口をはさんだ。
「なるほど、そうだつたのか。そう聞いてみれば、よく筋道が立っていますね。恋愛問題とは、誰も気がつかなかった。われわれは怪談ばかりに気をとられて、色っぽい方のことはすっかり忘れていたのですね。
 しかも、その発見の手掛りが、たった一冊のローマ字の日記帳だったとは面白い。あなたそれをお持ちですか。あとでゆっくり拝見したいものですね」
 北森氏は思わず笑い声を立てたが、すぐ思いなおしたようにまじめな顔になって、もっとも重要な点に触れて行った。
「それで、綾子さんが犯人でないことはよくわかったのですが、すると真犯人はいったい何者でしょう。僕はなんだか、いよいよ迷路の中に追い込まれたような気がするんだが、明智君、君はこの点についても、何かわれわれの知らない材料を握っているんじゃありませんか」
 すると、明智小五郎は、モジャモジャの頭の毛を指でかきまわしながら、ニッコリ笑って答えた。
「お察しの通りです。僕は実に非常な材料を握っているのです。病院のベッドの中でそれを手に入れたのです」
「えっ、ベッドの中?」
 北森氏も一郎青年も、びっくりしたように明智の顔を見つめた。
「ええ、ベッドの中で、それを手に入れる手段を思いついたのです。そして、ある腹心のものを使って、うまくその貴重な材料を摘むことができました。
 犯人が僕を撃って重傷を負わせたのは、一時僕をこのうちから遠ざけるためでした。そして、僕のいないあいだに、彼の計画を完了するためでした。ところが、それがかえって僕には仕合わせだったのです。病院で静かに寝ていたからこそ、その貴重な資料に気がついたのですからね。
 もし僕が無事で、このうちに見張りをつづけていたら、或いは伊志田さんや綾子さんが穴蔵の中へ監禁されるようなことはなくてすんだかもしれませんが、その代りにあの重大な資料は手に入れることができなかったでしょう。そして、真犯人は永久に発見し得なかったかもしれません。その資料というのは、それほど決定的な証拠物件なのです」
「すると、つまり、君は真犯人はもう発見したと言われるのですか」
 北森氏が聞き捨てにならぬという面持ちで詰めよった。
「そうです。僕は真犯人をつきとめたのです」
 明智はきっぱりと言い切った。
「もしそれがほんとうとすれば、われわれはこんな雑談に時をついやしている場合ではないじゃありませんか。君は、その犯人の居所を知っているのですか」
「むろん知っています。そして、犯人はもう逃亡できないような手配がしてあるのです。少しもご心配には及びません」
 北森捜査課長は、真向から一本打ち込まれたような気がして、思わず顔を赤らめた。
「では、すぐ部下をやって、逮捕しましょう。さあ案内してください。犯人は一体どこに潜伏しているのです。そしてそいつは何者です」
 やっきとなる北森氏を制して、明智は静かに答えた。
「どこへも行く必要はありません。その犯人はこの家の中にいるのです」



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posted by じん at 09:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸川乱歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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