2016年09月05日

江戸川乱歩「黄金仮面」書起。「第四回 黄金の守宮」を掲載

江戸川乱歩 作品集』に収録予定の「黄金仮面」の第四回目をお届けいたします。
 産業博覧会には演芸館と合わせて、百五十尺の「万歳塔」があったそうです。約四五メートルですから、一五階くらいの塔ですね。このトピックでは、この「産業塔」が舞台になります。


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   黄金仮面 第四回 黄金の守宮

 やっと演芸館を抜け出した怪賊は、今度は広っぱの大群集と戦わねばならなかった。その方がどれ丈け困難か分らない。実に惨憺たる戦いであった。
 四方から迫る警官群、弥次馬の石つぶて、その中を、金色燦爛たる、併し見るもみじめな怪賊は、汗みどろの死にもの狂いで、右に左に逃げ廻った。
 人なき方へ、人なき方へと逃げているうち、彼は貴賓御通行の御道筋へ出てしまった。坦々たる大道が、会場の行き止りの「産業塔」まで一直線に、何の邪魔物もなく続いている。その両側には、御出迎えの群集が、まるで黄金仮面の逃走を見物するためのように、道を開いてならんでいる。
 ふと振向くと、すぐうしろ十間ばかりの所に、丁度一つの建物をお出ましになった貴賓の一行が、しずしずと進んで来られるのと、パッタリ顔を合わせてしまった。
 由々しき一大事である。
 仰天した警衛の警官達が、ソレッと云うと、八方から怪賊の身辺に駈け寄った。そして、ね彼等が折重なって、今や賊を捻じ伏せようとした時である。どうしたというのだ。彼等はアッと叫んで、タジタジとあとじさりをした。
 見ると、賊の手に光るものがある。ピストルの筒口だ。彼はその時まで最後の武器を隠していたのだ。
 人々のひるむ隙を見て、金色の悪魔は、ピストル片手に、貴賓の一行に向って、二三歩進んだ。彼は気が狂ったのか。逃げる方角を誤ったのか。それとも、若しや…………ワーッと云う群集のどよめき。
 だが、意外意外、怪人は御一行の前に直立不動の姿勢をとったかと思うと、ピストル持つ手を胸に当てて、うやうやしく一揖した。威儀正しい最敬礼だ。アア、何という大胆不敵、彼は追手に固まれながら、心から、貴賓を驚かせ奉った今日の不埒を、御詫びしたつもりらしい。
 礼を終ると、彼はクルリと廻れ右をした。そして、反対の方角に、疾風の様な勢で駈け出した。群集は、怪物の水際立った振舞に、行手をさえぎることも忘れて、ボンヤリとその美しい姿を眺めていた。
 走るに従って、うしろざまに翻る金色の衣、それに折からの夕陽が、まばゆいばかりに照り輝き、怪人の飛び去るあとには、黄金の虹が立つと見えたのである
 だが、群集がうっとりしていたのは、ホンの一瞬間だ。ハッと正気に帰ると、猛烈な石つぶて。一層数を増した警官隊の追撃。
 大道の極まる所に、怪賊退がさじと釜え立つは、百五十尺の「産業塔」である。黄金仮面は遂にそこで行詰った。見れば、塔の背面からは、警官の別働隊がひしひしと迫って来る。それを遠まきにして、群集の大円陣。いかなピストルの威力も、敏捷な早業も、この肉の壁いかんに向っては如何ともすることは出来ない。
 進退谷まった怪賊は、ジリジリと塔の内部へあとじさりをして行ったかと思うと、最後の一策、九死に一生を求めて、塔内の螺旋梯子に飛びつき、上部へと駈け上って行った。下から見上げると、螺旋階段の十幾曲り、賊は段々小さくなりながら、同じ所をグルグル廻っている様に見える。
 階段が尽きると、百何十尺の空中に、探照燈を据付けた、四方開っぱなしの、火の見櫓みたいな小室がある。それで行きどまりだ。
 賊は、探照燈係の道具類を入れた木箱に腰かけて、ホッと息をついた。だが、休む暇もあらばこそ、追撃隊の警官達は、已に足下に迫っている。しかもいつの間に用意したのか、彼等決死隊の手には、ギラギラ光るピストルだ。
 彼は小さな部屋をグルグル走り廻った。だがどこに血路のあろう筈もない。柱につかまっありて地上を見下すと、蟻の様な群集が、塔のまわりに集って、凡ての顔が空を見上げ、口々に何かわめいている。
 頭の上には、道化師のとんがり帽子みたいな、急傾斜の屋根があるばかりだ。だが、もうこうなっては、その屋根へでもよじ昇る外には、助かる工夫はない。
 警官隊の先頭は、已に階段を昇りつくして、頭とピストルの手先が、床の上に現われて来た。愈々最後である。
 黄金仮面は遂に驚くべき決心をした。不可能なことをやって見ようというのだ。
 彼は両手に屋根の一端をしっかり摑むと、機械体操の見事な手並で、尻上りに屋上に身をのせた。併し、その屋根は、まるで断崖の様な、とんがり帽子型だ。どこに一箇所、足場もなければ手をかける所もない、しかもそこは、目もくらむ百五十尺の高空なのだ。
 見るも無残な大努力。彼はさかさまに平蜘蛛の形で、すべっこい屋根の面に吸いついたまま、ジリリジリリと方向転換を始めた。手の平と、腹部と、足の指先の力で、ともすれば辷り落ちようとするのを、じっと支えながら、一寸ずつ、一寸ずつ、向きを換えて、遂に頭を頂上に向けてしまった。どんな軽業師も嘗って企て得なかった離れ業だ。遥か地上の群集にやもりは、それが、不気味な金色の一匹の守宮の様に見えた。
 さて、向きを換えてしまうと、今度は頂上への、もどかしい蠕動運動だ。動くか動かぬかの速度で、併し彼は確実に頂上へ進んで行った。一寸、二寸、三寸、そして遂に一尺、二尺。もう一息で頂上の柱へ手が届く、アア、もう一息だ。地上の群集は、悪人の身の上ながら、息をつめ、手に汗を握った。
 丁度その時、にじむ油汗の為に足の力が抜けた。ハッと思うと、ズルリ、全身が辷った。きんこうワーッと上る群集の叫び声。均衡を失った身体は止めどもなくとり落ちる。アア、もう駄目だ。群集の多くは、思わず目をとじた、顔をそむけた。
 だが、何という底力だ。怪人は最後の一寸で踏みこたえた。彼の全身はその努力の為に地上からも分る程波打っている。そして、一休みすると、又頂上へと蠕動だ。
 遂に、遂に、彼の右手は頂上の柱を摑んだ。手係りさえ出来れば、もう何の危いことはない。彼はその柱を力に、百五十尺の大空に突立上った。颯爽たる金色の空の勇士。妙な心理だ。群集は賊が安全になったのを見て、やっと胸撫で下した。
 この離れ業の間、屋根の下の警官隊は、空しく騒ぐのみであった。いかに勇敢な警官も、この切っ立てた屋根へ昇る元気はない。人間業では出来ぬことだ。と云って、ピストルで脅かそうにも、屋根の出張りが邪魔になって、賊の姿を見ることさえ不可能だ。
 頂上の部屋から、急拵えの足場を組んで、賊を逮捕しようという説も出たが、賊のポケットにはピストルがある。足場を組んで、少しでも屋根の出張りの外へ頭を出せば、忽ち上からピストルのお見舞だ。どんな仕事師だって、そんな険呑な仕事を引受ける者はない。
 で色々議論の末、結局一同地上に降りて、そこから銃をさし向け、その威力で賊を降服させようということになり、附近の有志が持出した鳥銃や、憲兵隊の鉄砲を借りて、十数挺の筒先を揃え、空砲を放ったりして、しきりに威嚇して見たが、何の効果もない。天空から、遥かに、賊の不気味な高笑いが降って来るばかりだ。何というふてぶてしさだ。彼はこの絶体絶命の窮地にあってカラカラと笑っている。これが血と肉で出来た人間かと、奇怪な疑惑さえ湧いて来る程だ。
 残る手段は、気長に包囲を続けて、彼が疲労の極、降伏するか、地上に落ちて来るのを待つのみである。
 騒ぎの内に、日はとっぷりと暮れてしまった。黄金仮面の光りも失せ、巨人の様な高塔が、おぼろに見えているばかりだ。塔上の探照燈は、今夜に限って光を発せぬ。係りのものが怖がって、昇ろうとせぬからだ。
 塔の下には、警察や青年団の提灯が群がり、持久戦の陣が布かれた。群集の中には、徹夜の決心で、食料品を買込んで、尻を落ちつける者もある。恐らく警察初まって以来の大椿事だ。場所が東京の真中だけに、先年の鬼熊事件の比でない。商売熱心のある新聞社の如きは、一盗賊の為に号外を発行する騒ぎである。従って、怪賊の噂は東京全市に拡がり、さらぬも黄金仮面の怪談におびえていた市民は、今又別様の恐怖に戦慄しないでいられなかった。
 日が暮れて一時間もすると、人々の胸に一種の不安が湧上って来た。怪物は依然として元の場所にいるのだろうか。もう笑い声も聞えて来ぬ。闇の空の豆粒程の人の姿を見極めるこは出来ぬ。と云って、どこに逃げる所はないのだが、妙なもので、暗闇が人を臆病にする。敵の姿が全く見えぬのでは、何だか不安で仕方がない。
 そこで一人の警官が名案を持ち出した。博覧会場内には、この塔の外にもう一ケ所、探照燈が据えつけてある。それは今も現に活動して、白い棒を夜の大空に投げているのだ。この探照燈を塔の屋根に向げて固定し、今夜中賊の姿を照らし続けてはどうかという提案だ。勿論一同之に賛成、早速その手筈が取運ばれた。
 程もなく、強烈な円光が、塔の屋根全体をクッキリと闇の空に浮き上らさせた。
 群集は瞳をこらして、頂上の柱を見た。
 と、その剃那、ドッと湧起る驚愕の叫声。塔の頂上には、全く予期しなかった大椿事が起っていたのだ。賊の姿が消えたのではない。黄金の守宮は、もとの屋上にへばりついている。だが、だが、アア、これはどうしたことだ。人々は余りの意外な出来事に、空を見上げたまま、茫然自失の体であった。



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posted by じん at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸川乱歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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